礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年7月25日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
                「敵を愛する」 マタイの福音書 5:43~48


 神は私たちを「愛する」生き方へと召してくださった。「愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)

Ⅰ 敵を憎む者から敵を愛する者へ(5:43~44)
 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。「隣人を愛する」、これがすべてである。創造主なる神によって、「神のかたちとして」造られたすべての人(創世1:27)が私の「隣人」である。ただその隣人たちの中に、「隣人」として受け入れやすい隣人と、「敵」としか思えないような隣人がいる。
 「愛する」とは「祈る」こと。敵としか思えないような隣人のことを神の前に祈り、祈りながらその人に本当に助けとなることは何かを神から教えていただき、さらにその人への神の恵みを祈りつつ、必要に応じてその人に働きかけていく。

Ⅱ 天の父の子どもとなるため(5:45)
 愛の最高の実践者は神ご自身。神は「善人にも悪人にも」何ら区別なく、「ご自分(の所有である)太陽」や「雨」を提供しておられる。
 私たちキリスト者はこの神を「父」とする神の子どもたちである(ヨハネ1:12~13、ガラテヤ3:26)。子どもは本来、父に似る者である。だからこそ、この天の父の愛の実践に倣うことによって、私たちはますます天の父に似ていき、名実ともなる、天の父なる神の「ふさわしい」子どもたち「となる」。

Ⅲ 完全を目指して(5:46~48)

 神は、しかも、私たちに永遠のいのちを与えるため、ご自身の最高の宝である御子イエスを十字架につけ、贖い(罪の償い)の犠牲とし、神と罪人との根本的な和解の道を開いてくださった。神は御子イエスを死からよみがえらせ、天に引き上げ、聖霊をくだし、聖霊を通して御子イエスを無償で私たちに差し出していてくださる。だれでもこのイエスを心に迎えて、イエスによって、永遠に続く愛の神との豊かな交わりに生きることができるようにしてくださっている(Ⅰヨハネ4:9~10)。
 愛において完全なるこの神が、私たちの天の父である。私たちは神の子どもとして、神に愛されながら、愛の神にますます似続けていく。それゆえ、「あなたがたの天の父が(愛において)完全であるように、(あなたがたも愛において)完全でありなさい」(16)。愛における完全を目指して、私たちは愛する歩みを続ける。

 私たちは愛の御父の子として、御父に倣い、「すべての隣人を愛する」という高嶺を目指して踏み出そう。敵と思える隣人のために、とにかく祈り出そう。「御父。私はあの人のためには絶対祈りたくありません」と底の底から祈り始めよう。「千里の道も一歩から」「高きに登るには卑きよりす」。御父の愛は私たちが思う以上に大きく、その愛の御手は私たちが思う以上に力強い。私たちはすでに天の父なる神の愛する子どもたち、だからこそ御父は私たちを「すべての隣人を愛する」愛の高嶺へと一歩一歩引き上げてくださる。