礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年7月18日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
           「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」 ヨハネの福音書 19:16~22


 イエスは十字架につけられ、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と罪状書きが掲げられた。

Ⅰ イエスは自分で十字架を負って(19:16~17)
 イエスをピラトの手から引き取り、イエスを十字架につけたのは、実質的にはユダヤ人たち、イスラエルの民、神を信じる神の民であった(使徒2:22~23)。イエスは御父に背を向け、ご自身に逆らう神の民に対して怒りや恨みを抱いて、仕方なく十字架を負って歩まれたのではない。
 イエスはユダヤ人の王、これから世界に広がろうとしている神の国の王として、どうしようもない神の民たち、罪人たちのすべての罪と弱さをその身に負われた。真の王とは、自分のいのちをかけて民を守り、民を養い、民を生き生きと生かす者。イエスはそのような真の王として、十字架を負い、十字架への道を歩まれた。
 私たちもこのイエスに続きたい。人々を生かすための困難を主体的に負い、そして、苦難を通して栄光へと至るその道を歩ませていただこう。「イエスから、目を離さないで」(ヘブル12:2)。 

Ⅱ イエスを十字架につけた(19:18~22)

 神の見えざる支配の中で、ピラトは図らずもイエスの王としての即位式を準備した。イエスは十字架につけられた(18)。十字架はイエスの王座となった。イエスの右と左に着いたのは、二人の強盗殺人犯たちであった(18、マタイ27:38、ルカ23:33)。
 そのうちの一人はイエスの前に自分の罪を認め、イエスを救い主と信じ、イエスに自分をゆだね、神の民の王、神の国の王、また、歴史と世界の王、全宇宙の王であられる神の御子イエスから最終的な宣言、罪の赦しと永遠のいのち宣言を受けた(ルカ23:39~43)。自分の何かに頼るのではなく、ご自分のすべてを十字架で与えてくださったイエスに信頼する者がイエスの栄光にあずかり、イエスとともに支配する。イエスのいのちにあずかり、イエスとともに愛をもって神と人に仕える者とされる。
 「ユダヤ人の王。ナザレのイエス」との罪状書きは、万人が理解できるように、ヘブル、ラテン、ギリシアの三言語で書かれ、イエスの頭上に掲げられた。イエスこそユダヤ人にも異邦人にも、全世界にとっても王、神の国の真の王、真の救い主であられる。

 イエスの十字架の王座は、天の栄光の王座につながる。イエス・キリストは私たちの真の王、天の栄光の王座に着きながら、聖霊において私たちとともにおられ、いまも十字架を担い歩まれる。私たちの弱さを担い、苦しみを共にし、私たちのことを背負って、苦難を通して栄光へと至る道を進んで行かれる。この人を見よ!