礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年6月13日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
         「『わたしだ』~イエスの逮捕~」 ヨハネの福音書 18:1~11


十字架を前にしたイエスは、告別説教を終え、祈るため、弟子たちを引き連れてゲツセマネの園に行く。そこでイエスは逮捕される。

Ⅰ ユダの先導で捕らえる者たちがゲツセマネの園に来る(18:1~3)

十二弟子の一人であったイスカリオテのユダが、イエスを捕らえる者たちを先導してゲツセマネの園にやって来た。ユダはイエスに口づけする。それが「この人を捕まえるのだ」という合図だった(マタイ26:48)。人々は一斉にイエスに近寄った。

Ⅱ イエスの主(ヤハウェ)としての権威(18:4~9)

イエスは今後自分に起こることをすべて知っておられた。逮捕、裁判、十字架、死、葬り、そして、復活、昇天、御父の右への着座、聖霊降臨。それゆえ、イエスは逃げも隠れせず、自分から「進み出て」、「だれを捜しているのか」と捕り方たちに問う。
彼らが「ナザレのイエスを」と答えると、イエスは「わたしだ」と名乗りを挙げる。「わたしだ」は、「わたしはある」という主なる神の御名(出エジプト3:14)。「わたしは主(ヤハウェ)である」と言って、ご自身を主なる神として啓示されたそのおことばには圧倒的な権威があった。それで、捕り方たちは圧倒され、「後ずさりし、地に倒れた」(6)。
イエスは再度「わたしだ」と言ってご自身が主であることを宣言された後、「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」と捕り方たちに迫る。イエスはこのようなお方。イエスはご自分を犠牲にして、ご自分に属する者を生かすお方であられる。逮捕に始まり十字架の死へと続くイエスの受難は、まさにご自分に属する者たちを生かし、救い、いのちに導くためのものであった。

Ⅲ ペテロの剣とイエスの剣(18:10~11)

ペテロは剣を振るう。彼は手に剣を持っていたが、イエスへの十分なる信仰(理解と信頼)は持っていなかったようである。
一方、イエスは刃物の剣は持たないが、みことばという剣を持っておられる(エペソ6:17)。イエスは裏切られ、拒絶され、あざけり侮られ、殺されなければならない。旧約聖書がそう語っているからである。イエスは聖書のことば、御父のみこころを受け取り、ペテロを制し、自らを捕り方たちに引き渡す。 

十字架に向かって大きく踏み出すイエスの静かで毅然としたたたずまいが印象的である。イエスの主なる神自身としての威厳、御子としての御父への信頼と服従、ご自分に属する者たちへの深い愛、罪人の救いに対する情熱がここに湧き出している。この人を見よ!