礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2021年5月30日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】 「十戒」 出エジプト記 20:1~17 「問58 神さまが聖書を通して示された愛の生活の基準はどこにありますか。 答 『十戒』の中にあります」(『子どもと親のカテキズム ~神さまと共に歩む道~』)。 「十のことば」(十戒)は守れば救われ、守らなければ救われないといった救いの条件ではない。むしろ、子羊の血による贖い(解放)(= イエスの十字架の身代わりの死による罪の赦し、イエスの死からの復活による罪の力の破壊)に、信仰を通してあずかり救われた者が、どのように神を愛し、神とともに歩むかを示すもの。同時に、私たちが神に従うことができず、いかに罪深く、それゆえに救い主が必要であることをますますわからせ、救い主に頼るようにさせるもの。十戒は神と共に歩む「愛の生活」を導き、私たちをこの世にあって、神のすばらしさをあらわす宝として輝かせてくれるもの。イエスは十戒を全身全霊で神を愛し、隣人を愛することと要約した(マタイ22:37~40)。 十戒の根幹部分は以下のとおりである。 序言「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者。」 第一「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(礼拝の対象) 第二「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(礼拝の方法) 第三「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」(礼拝の心の姿勢) 第四「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(礼拝の時) 第五「あなたの父と母を敬え。」(神のかたちとしての人間の尊厳) 第六「殺してはならない。」(生命の神聖さ) 第七「姦淫してはならない。」(結婚の神聖さ) 第八「盗んではならない。」(所有物の神聖さ、自由の尊重) 第九「隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(言葉の神聖さ、名誉の尊重) 第十「隣人の家を欲してはならない。」(感謝の大切さ、罪の根) 「十戒」を廃棄、改変するのではなく、むしろ活かして用いよう。どうすれば良いか。 第一に、十戒を神からの愛のことばとして愛していくこと。神の愛として受け取り、神の愛を信じて、そのことばを守ってみる。「十戒を守るなら、十戒があなたを守る」。本当のルールとは、ルールを守る人を守り、活かし、自由にし、楽しませるものである。十戒は神の愛のことば。私たちを愛してくださる神が、私たちが本来の人間らしく、真に自由に生き生きと生きることができるようにと、私たちに与えてくださったことばである。 第二に、十戒の各条項の本質的意味をつかみ、「~して生きてごらん」という神からの積極的勧め、神の願い、神からの招きとして読んでいく。 序言は神の名乗り。「わたしは主、ヤハウェ、『わたしはある』。あなたといつもともにいるあなたの神。あなたを救った者、救い続ける者。あなたを愛している。」 第一戒から第四戒は、神を愛すること、神を礼拝することに関してである。 第一戒は、礼拝の「対象」。「主なる神であるわたしだけを礼拝して生きなさい」。 第二戒は、礼拝の「方法」。「偶像を通さず、御霊と真理(聖霊と聖書のみことば)よってわたしを礼拝しなさい」(ヨハネ4:24参照)。「また、刻んだ像(固定したイメージ)をもって、わたしをれいはいするのではなく、わたしについての新しい発見を期待して礼拝しなさい」。 第三戒は、礼拝の「心の姿勢」。「まごころ込めてわたしの名を呼びなさい。全身全霊を込めてわたしを礼拝し、賛美をうたい、祈りをささげなさい」。 第四戒は、礼拝の「時」。「わたしとの親密な時間を大切にしなさい。週一日、わたしのうちに休み、新しい力を得なさい。」 第五戒から第十戒は、人を愛すること、人間関係におけることである。別の言い方をすれば、人を愛することを通して「神を愛する」道を教える。 第五戒は、「父母」に代表される、自分と関わるすべての人々への尊敬。神のかたちに造られた人間の人格の「尊厳」を覚え、大切にすることへの招き。 第六戒は、神のかたちとして造られた人間の「生命」の神聖さを覚え、大切にすることへの招き。 第七戒は、神が制定した「結婚」の神聖さを覚え、自分の家庭も、人の家庭も大切にすることへの招き。 第八戒は、神が与えてくださったそれぞれの「所有物」の神聖さを覚え、他人の所有を大切にすることへの招き。また、「人の自由」を奪うことへの禁止。人の「自由」を最大限に尊重することが第八戒の本質である。 第九戒は、神から与えられた「言語」の神聖さを覚え、正しい言語生活をすることへの招き。「隣人について偽証するな」であるから、「人の名誉」を重んじることが第九戒の本質である。 第十戒は、「感謝する」生活への招き。今自分に与えられているものを神からの贈り物として「感謝」すること。しかしまた、この第十番目の戒めは、行為として罪を犯さなくても、十戒のどれかの戒めを破ることを「欲する」ことも神のみこころにかなわない罪であることを示している。私たちの自己義認(「自分は戒めを守っているから正しい」とすること)を木っ端みじんに打ち砕くものである(ローマ7:7~12)。「わたしが与えたものを感謝して生きなさい。あなたがどれほど自己中心の欲望で満ちている罪深いものであるかを知りなさい。そして、わたしの救いをますます信頼して生きなさい。」 こうして、再び十戒の序文に戻っていく。「わたしは主、ヤハウェ、『わたしはある』。あなたといつもともにいるあなたの神。あなたを救った者、救い続ける者。あなたを愛している」。神の愛と赦しのことばに押し出され、私たちはさらに神を愛する道へと前進して行く。 第三に、十戒をもって祈るのはどうだろう。 たとえば、第二戒を祈りにするならこうなる。 「『あなたは自分のために偶像を造ってはならない』。主よ、あわれんでください。あなたを聖霊とみことばをもって礼拝させてください。いつも新たにあなたと出会わせてください。」 第六戒を祈りにするならこうなる。 「『殺してはならない』。主よ、あわれんでください。神のかたちに造られた人間のいのちを大切にすることにより、あなたを愛することができますように。私を人を活かすために役立たせてください。」 神の愛のことばである十戒を大切にし、私たちのキリスト者生活にもっともっと活かして用いさせていただこう。神に愛されている私たちが、神の愛にお応えし、神をますます愛し、神を愛することを通して隣人をますます愛することができますように。そのようにして、ますます神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどあるかを知ることができますように。 |