礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年3月14日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
           「イエスにとどまる」    ヨハネの福音書 15:1~11

本日は主イエスの告別説教の4回目。イエスが実を結んでくださる人生を歩ませていただきたい。

Ⅰ イエスはまことのぶどうの木、御父は農夫(15:1~3)
イエスは「まことのぶどうの木」(1)。イエスは聖霊によって、ご自身の枝であるキリスト者とキリストのからだなる教会において、豊かな実を結ぶ。それは御霊の実(ガラテヤ5:22~23)であり、「愛」の実である。
御父(父なる神)はぶどうの枝を大胆に刈り込む農夫。御父は弟子たち(私たち)を、苦難を通し、イエスのことばを通して刈り込んでいく。キリスト者は苦難を通して自分の弱さを知り、へりくだらされ、苦難の中で聴くみことばを通して不要なものを神の御前に投げ出し、イエスに純粋に信頼するように引き上げられていく。
私たちの現状がどうであろうと、神の愛が私たちを取り囲んでいるのである。御父、御子、聖霊の三位一体の愛の神が私たちを捉え、私たちにたえず働いておられる。神に心を向け、神に希望を置こう。

Ⅱ イエスにとどまって多くの実を結ぶ(15:4~8)
「イエスにとどまる」とは、イエスと有機的生命的なつながりを持ち続けること、イエスとの親しい交わりに生きることである。イエスとつながり、イエスにとどまるキリスト者のうちには、イエスご自身がとどまってくださる。素晴らしい!そして、イエスがその人を通して豊かな愛の実を結んでくださる。それはイエスの霊(聖霊)のなせるわざでもある。
イエスにとどまる人はイエスのことばを絶えず聴くので、イエスの「ことば」が深くその人の心の中にとどまる。イエスの心を共有する。イエスの願いがその人の願いになっていく。その人の祈りはイエスが願っておられることになっていく。すなわち、「愛の実を結ぶこと」、互いに真実な愛をもって愛すること(13:34、15:12,17)になっていく。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(Ⅰヨハネ5:14)。
イエスにとどまって愛の実を結ぶこと、私たちはそのためにこそ召されている。

Ⅲ イエスの愛にとどまる(15:9~11)
御父はご自身の全存在を与えるほどに御子を愛しておられ、イエスはその同じ愛をもって弟子たちを愛しておられる。
イエスは受肉と従順と十字架と復活と昇天と聖霊降臨を通して、ご自身のすべてを与えてくださった。このイエスのうちに、罪の赦しと永遠のいのちと神の子(神の養子)としての身分、慰めといやし、きよめと栄光などすべての救いの恵みがある。イエスはそのご自身を私たちに与えてくださっている。イエスの愛にとどまろう。
イエスの弟子たち(キリスト者たち)は、イエスの愛を絶えず味わいながら、イエスの愛に感謝しつつ、イエスを愛する愛をさらに掻き立てられ、イエスへの愛のゆえに、互いに愛し合うという「新しい戒め」(13:34、15:12,17)を守る。まずイエスの愛を浴びるように受け、そして、イエスの愛の戒めを心から実践する。そのことが、イエスの愛にとどまっていることの証しとなる。
イエスの愛にとどまる人には、イエスの喜びが宿る。そして、イエスの平安が満ちあふれる。

愛のための方向転換を続けよう。絶えずイエスに向き直り、イエスにとどまろう。ご自身の全存在、ご自身のいのちまでも与えてくださるイエスの愛にととどまり続けよう。イエスも私たちのうちにとどまってくださり、イエスとの愛の交わりはさらにさらに豊かにされていく。イエスのみことばが私たちを生かし、イエスの聖霊がますます働いて、私たちはイエスの愛といのちに活かされていく。