礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2021年2月28日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】 「安息日の主」 マタイの福音書 12:1~14 イエスとパリサイ人との安息日論争である。パリサイ人は旧約の律法に細則をたくさん付け加え、その一つひとつをきちんと守ることによって救いを得ようとした。また実際にそれらのことを、(他の人に比べればであるが)よく守っていることを誇っていた。彼らは木を見て森を見ず、枝葉を重視した。一方イエスはいつも根本精神を見極め、それを大事にする。 Ⅰ 安息日は「~してはいけない日」なのではない(12:1~2) パリサイ人たちは、イエスの弟子たちが安息日にしてはならない「刈り取り」と「脱穀」と「もみ殻吹き」という労働をしたというのでイエスを責めた。 創世記2:1~3によれば、安息日は創造の総仕上げ、神は安息日を取り分け、安息日を特別に祝福された。神は安息日に、神のかたちとして造られ(創世1:27)、創造の中心である人間を特別に祝福する。人は安息日に神に向き合い、神の祝福を全身全霊で浴びるように受けとめる。人が神を礼拝し、神の栄光をたたえ、神と交わり、神を喜び、神のうちに憩い、安らぐ。そのために神が創造されたのが安息日である。(安息日は旧約時代は週の第七日目であったが、イエスの復活以後は週の第一日目となった。) パリサイ人は十戒の第四戒(安息日の聖別の規定)のうち、「いかなる仕事もしてはならない」を深掘りし、「安息日にしてはいけないわざ」の細則を作って、それを神経質に守ろうとした。彼らにとって安息日は「~してはいけない日」、束縛と窮屈な日となっていた。 Ⅱ イエスこそ安息日の主人公(12:3~6) イエスは旧約聖書に記されていることを3つ例に上げ、パリサイ人たちの誤った律法主義に反論する。 第一は、ダビデがサウル王に追われ、空腹であったときのこと (Ⅰサムエル21:1~6)。飢え死に寸前の生きるか死ぬかの命の方が、神殿の祭儀律法よりも優先される。 第二は、宮(幕屋、後の神殿)で奉仕する祭司たちのこと(レビ24:8、民数28:9~10)。神殿礼拝の奉仕の方が、安息日律法における禁止命令よりも優先される。まして「ここに宮よりも大いなるもの」イエスがおられる。イエスとともにおる弟子たちは宮にいる祭司以上の者、イエスのために働いて安息日にいろいろなわざ行っても何の問題はない、とイエスは言う。 第三に、預言者ホセアのことば(ホセア6:6)。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8,16)。それゆえ、神は真実の愛をこそ大切にされる。神は愛そのものであられ、あわれみ深く、誠実な方である。だから、神のかたちとして造られた人間もまた愛に生きる。他者に対してはあわれみ深く、神に対しては誠実に生きるべきである。 そして、イエスは宣言する。「人の子は安息日の主です」。「人の子」イエスが「安息日の主」。すなわち、イエスこそ安息日を創造した神。十戒をはじめ安息日の律法を与えた方。安息日の意味を知り、安息日の真の解釈を提示する方。安息日を支配し、安息日の恵み、真の安息、平安をお与えになる方。そして、イエスこそ安息日の目的、すなわち安息日に礼拝すべき神ご自身なのである。イエスこそ安息日の主人公。 安息日のキーワードは、第一に「いのち」(3~4)、第二に「神礼拝」(5~6)、第三に「真実の愛」(7)である。安息日は「いのち」が満たされる日。安息日は「神礼拝」の営みとして過ごす日。安息日は「真実の愛」に生かされ、「真実の愛」に生きる日である。 安息日は神に心を向け、イエスと向き合って過ごす。その中で「いのち」が満たされていく。ふだんの労働から自分を解き放ち、からだとこころの休みを得る。礼拝をし、神とイエスと聖霊と親しく交わって霊的いのちも満たされる。神の御手の中に命が支えられていることを感謝する。イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活によって、罪の赦しが与えられていることを再び確認し、永遠のいのちの希望を新たにされる。そして、神とイエスの愛の中でやすらぎ、からだもこころも、そして、人格の深みである霊(たましい)も安息を得、リフレッシュする。イエスの復活のいのちにあずかって、元気を回復し、新しい週の歩みのために再び立ち上がっていく。また、神からいただく愛によって互いを愛していく。特に、困難の中にある方に手を差し伸べ、ことばをかけ、友として寄り添って支えていく。そのようにして、神の愛とイエスの復活のいのちをともに喜んでいく。そして、永遠の安息、完成された神の国の到来をますます慕い求めていく。 安息日、私たちの日曜日は、束縛の日ではなく、私たちの全人格、私たちのからだと心と霊の安息と解放の日。「喜びの日」、「栄えある日」である(イザヤ58:13~14)。「安息日の主」イエス・キリストとの真実な出会いの日であり、神の御子イエスが私たちに働き、私たちを通して働いてくださる日である。私たちはその恵みをともに喜んでいこう。 |