礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年2月7日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
              「弟子を招く」    ルカの福音書 5:1~11

シモン・ペテロも最初は漁師をしながらイエスに従う弟子であった(ヨハネ1:41~42)。イエスはそのペテロを、漁師をやめてフルタイムでイエスと宣教活動をともにする弟子となるようお招きになる。ペテロはイエスの招きに応える。
イエスは私たちをも招く。私たちをお召しになる。イエスは何度も何度も、日ごとに、私たちをお招きになる。わたしたちはイエスの招きに応え続ける弟子なのである。

Ⅰ イエスに舟に乗っていただく(5:1~7)
群衆は本物に飢え渇いていた。それで、イエスに押し迫り、イエスのことばを「神のことば」として聞いた(1)。今日も人々は本物に飢え渇いている。本物の福音に、真実な愛に飢え渇いている。
岸辺では漁師たちがその日の漁をあきらめ、舟から降りて網を洗っていた。イエスは漁師たちにではなく、その舟に注目された(2)。私たちにもそういう空(から)の舟があるのではないか。あるプロジェクトを始めたけれども、はかばかしく事が運ばず投げ出してしまったものがあるかもしれない。何かに使おうと買ったがそのまま放ったらかしにしている物があるかもしれない。今までは自分中心でプロジェクトを進めようとし、自分のためにその物を使おうと思っていたかもしれない。でも、うまくいかなかった。結局、手付かずになってしまった。そういう、空の小舟があるものだ。しかし、イエスに乗っていただくなら、イエスはそれを思いもよらぬことに用いてくださる。イエスを舟に迎えるなら、その舟で素晴らしい恵みを経験させてくださる。
イエスはペテロの小舟に乗られ、ペテロもいっしょに乗る。イエスはその小舟から群衆にみことばをお語りになる(3)。イエスは福音を、本物の愛、神の愛を語った。漁師たちが自分たちの漁をするために使う舟が、いまやイエスがお乗りになって、人々を生かすために用いられるものとなった。「主イエスよ、お乗りください」とお迎えするとき、私たちの空の小舟が人々を生かすために用いられる。
究極的には、その「小舟」とは、私たち自身かもしれない。自分で今日の計画を立て、自分で人生設計し、一生懸命やっているが、結局思い通りにはいかない自分と自分の日常、自分の人生。「ああ、どうにでもなれ」とどこか投げやりな気持ちになっているかもしれない。その自分、自分の生活、自分の人生という小舟にイエスを迎えよう。イエスが人々を生かすために私を用いてくださるようにと祈りつつ。
イエスは次に、当事者である漁師たちに素晴らしい祝福を体験させてくださった。ガリラヤ湖の漁は、夜、岸辺近くの浅い所でするのが常識であった。ところがイエスはこの真昼間、深みに網をおろせと非常識なことを言う。ペテロは不承不承であったが、イエスのことばどおりにやってみた。すると、驚くほどの祝福、大漁を経験した。「魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった」(7)。
私たちも何かのプロジェクトにイエスに乗っていただき、すでにあるものを活用するにあたりイエスに関わっていただくなら、やはり想定外の祝福を経験するだろう。「主イエスよ、どうぞお乗りください」。どんな小さなことにも、主イエスに関わっていただくなら、そこに大きな祝福が開かれていく。

Ⅱ 霊的な深み、霊的な驚き(5:8~11)
ペテロたちはイエスの祝福を経験しただけではない。さらに霊的深みを体験させられた。とてつもない驚き、霊的な驚きを覚えさせられた。
第一に、彼らはイエスの神としての力に触れた。イエスは湖の中のこともみんな知っておられる。そして、おびただし魚を網の中に導き入れてくださる。大きな驚き! 彼らはイエスを神として畏れた。
第二に、彼ら、特に、ペテロは自分の罪深さを思い知らされた。彼はイエスに神を見た。神の大きさ、力、聖さの前に立たされている自分の小ささ、罪深さに圧倒された。「私から離れてください、私は罪深い人間ですから」と叫ばざるを得なかった。自分は思っている以上に小さく、罪深いと実感。これも大きな驚き!
第三に、ペテロはイエスの赦しと愛を深く味わわされた。神の偉大さと聖さに圧倒され、自分の小ささ罪深さに圧倒された彼に対し、イエスは「恐れることはない」と宣言してくださった。これは愛と赦しである。イエスご自身が十字架について代わりに罪の裁きを受けてくださる。そのイエスの十字架の贖いのゆえに、罪に対するさばきはない、というのである。これまた大きな驚き! 神の聖さ、自分の罪深さに圧倒されながら、そういう罪人を赦してくださる神の愛の絶大さ、イエスの恵みの底なしの深さになお圧倒される。
しかし、それで終わらない。第四に、イエスは「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」と彼に言う。神の聖さに圧倒され、自分の罪深さに圧倒され、罪を赦す神の愛とイエスの恵みに圧倒される者を、イエスはさらにご自分のみそばに招かれる。打ちひしがれ、弱くされ、ただ神の愛とイエスの恵みで支え起こされる者をお召しになる。「さらに一緒に生きていこう。一緒に神に仕えていこう。人々を神のもとに連れて行く働きを一緒にしていこう」と。イエスの力は弱さの中にこそ働くのである(Ⅱコリント12:9)。

私たちもそれぞれの舟(人生、生活)にイエスをお乗せするとき、祝福を受けるとともに、その主イエスを見つめ、主と交わる中で、さらなる霊的深みを体験させられる。「深みに漕ぎ出しなさい」。