礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年1月10日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「イエスに足を洗っていただく」   ヨハネの福音書 13:1~10

イエスは十二弟子の足を洗い、手ぬぐいでふいていかれた。これは何を教えるのか。

Ⅰ イエスの極限までの愛 ~ご自分を十字架で与え尽くす愛~(13:1~5)
過越の祭りは、イスラエルの先祖たちがエジプトの奴隷状態から子羊の犠牲の血を通して贖い出された過去の出来事を記念するもの(出エジプト12~13章)。とともに、イエスの十字架の犠牲による私たちの罪の(奴隷状態から解放する)贖いのわざの完成を予告するもの。
イエスは十字架の死と葬り、復活と昇天の時が間近であることを悟り(1,2)、愛してきたご自分の弟子たちを地上の働きが終わる「最後」の時まで、さらに永遠に至るまで、また無限の「極みまで」(1、欄外別訳)愛し抜こうとされた。
イエスは自分が神自身であり、神の御子であり、世の救い主メシアであること、また、すべてが自分にかかっていることを深く受けとめ、主体的に自分を与え尽くす愛に徹した(3、Ⅰヨハネ4:10)。身を低くして弟子たちの足を洗うイエスの洗足の行為は、彼らの贖いのため十字架の死に向かう極限までの愛の証しであった。ピリピ2:6~8。
イエスの十字架での贖いの死は私たちの罪の罰を決定的にぬぐい去る。

Ⅱ イエスによる足洗い ~日々の罪の赦しの確認ときよめが私たちに必要~(13:6~11)
イエスはペテロに言う。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」(10)。洗いは救いを象徴。当時、友人宅の食事に行くとき、まず自分の家で全身水浴して出かける。途中で足が汚れるので、相手の家についたら奴隷が足を洗ってくれた。しかし、水浴はもう一度することはない。
人は最初の悔い改め(方向転換)とイエスへの信仰によって、一回的決定的に義と認められ、罪(の罰)の赦免を受け(義認)、霊的な新生が明らかになる(3:3,5~8)。新生と義認の恵みは生涯一度の洗礼によって証印される。
しかし、私たちにはなお罪が厳然としてあり、日ごとに思いとことばと行いで罪を犯し、罪に汚れていく。それゆえ、イエスは愛をもって日々私たちの足を洗ってくださる。日々に罪の赦しを確認させ、きよめ続けてくださる。だから汚れた足をイエスの前に日々差し出そう。イエスの赦しときよめを日々に受けて、日々新たに歩み続けさせていただこう。Ⅰヨハネ1:9。聖餐に定期的にあずかることが象徴する、日々の罪の赦しときよめが生涯必要である。

礼拝はドイツ語で“ゴッテス・ディーンスト”。それは「神の奉仕」という意味。礼拝は私たちの神への最高の奉仕。とともに、礼拝(主日礼拝、個人礼拝)は神が私たちに奉仕してくださる最良の場である。イエスの弟子である私たちキリスト者は、このイエスの愛の奉仕を日々受け続けていく必要がある。私たちは日ごとに自分の罪、汚い部分をイエスの前に開き、「主よ、こんな罪人の私をあわれみたまえ」(ルカ18:13参照)と祈りつつ、イエスの赦しの宣言を受け、きよめを受けて、立ち上がるのだ。