礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年12月13日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(待降節第三主日礼拝)】

     「救い主の誕生」       ルカの福音書 2:1~7

神が人となって私たちの中に住み込んでくださった記念日。これがクリスマスである。

Ⅰ 神のすばらしいご計画は着実に前進する(2:1~5)
この世の権力者がわがもの顔に振る舞い、人々を翻弄しているかに見える。しかし、神のご計画は密かに着実に前に進んで行く。神が罪人を救うご計画、神の国(永遠に続く神の愛の支配、神と人との愛による永遠の交わり)を打ち立て広げていくご計画は着実に進む。
人口調査のために、マリアとヨセフはガリラヤのナザレから100キロも離れたユダのベツレヘムに行く。このようにしてメシア(キリスト、救い主)はベツレヘムで生まれるという、700年も前の預言者ミカによる預言(ミカ5:2)が成就した。

Ⅱ 神の時が満ちて、イエスによって罪人救出作戦が本格始動(2:6~7a)
マリアは月が満ちた。そして神の時が満ちた(ガラテヤ4:4~7)。神の御子が人となり、人間イエスとしてこの世に生まれてくださった。イエスは罪と死と悪魔の支配する世に生まれてくださった。神が罪人を救ってくださる罪人救出作戦の本格始動である。
イエスはまた、ユダヤ人として律法のもとに生まれた。そして、イエスは律法を踏み行った。律法を完全に守られた。しかも、イエスは罪がないのに、私たちに代わって律法違反の罰を受けてくださった。十字架にかかって死んでくださった。それは、律法の呪いから私たちを贖い出すため、救い出すためである。イエスは十字架の死のゆえに、私たちを神のみこころ(律法)に違反する罪の罰から贖い出してくださる。罪の罰から救い出してくださるのである。
さらには、イエスは儀式律法をも全うされた。儀式律法の中心は人が神に近づくために必要ないけにえとに関する諸規定である。イエスがこれら儀式律法を満たしてくださったゆえに、イエスは私たちを儀式律法からも贖い出してくださった。私たちはもはや本体の影に過ぎない儀式律法によることなく、光であられ、本体であられるイエスによって、イエスを信じて、神の前に神の子どもとして大胆に近づくことができるのである。
「マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ」。赤ちゃんイエス様を見つめよう。赤ちゃんイエス様はおぎゃおぎゃと泣いている。両親は「ああ、泣いた、泣いた」と喜んでいる。また、赤ちゃんイエス様は母の腕に抱かれ、母の胸の中で安らいでいる。両親は赤ちゃんイエス様に向かってほほえんでいる。
私たちも黙想の中で、信仰の中でこのイエス様を抱いてみよう。そのとき、私たち自身もまた神の子どもとされることを覚えることができる。神の腕の中で泣くことができ、神の胸の中に安らぐことができる、神の赤ちゃん、神の息子・神の娘とされていることを覚えることができるのだ。

Ⅲ 飼葉桶のイエスは私たちのために死ぬために生まれた方(2:7b)
石の飼葉桶の中に布にくるまれて横たわる赤ちゃんイエスの姿は、まさに死に姿である。イエスは死ぬために生まれたといっても過言ではない。イエスは十字架の死、神のさばきとしての死によって、私たちの罪への罰を代わりに受けてくださった。そして、ご自身の死をもって、私たちの死を身に負い、ご自身の復活によって、私たちの死を打ち砕いてくださったのである。
死に装束をまといながら、いのち豊かに生きている飼葉桶の中のイエス。このイエスを信仰によって抱く者は、罪の赦しを豊かに受け、一度は死んでも、死を通して永遠のいのちに入り、やがて栄光の体に復活させていただくのである。

飼葉桶、そこからイエスの生涯が始まった。飼葉桶のように冷たく、雑然として、汚れている私の罪の心に、イエスは聖霊において日々近づき来てくださる。私たちはこのイエスをしっかりと受け入れることから始めたい。そこから、イエスとともに歩む旅、イエスの存在が大きくなっていく生活、イエスとともに成長していく生が日々新たに始まっていく。