礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年12月6日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(待降節第二主日礼拝)】

      「ヨセフへの御告げ」 マタイの福音書 1:18~25

今から2700年ほど前、預言者イザヤは、「インマヌエル!」「神が私たちとともにおられる」(イザヤ7:14、9:6~7)と叫んだ。そのイザヤの叫びは700年後、ベツレヘムで人として生まれてくださったイエスにおいて成就した(現実のものとなった)。

Ⅰ ヨセフの戸惑いと男らしさ(1:18~19)
「母マリアはヨセフと婚約していた」(18)。これは法律上は夫婦であるが、まだ一緒に生活を始めていない状態。マリアの妊娠にヨセフには覚えがないので、彼はマリアが姦淫を犯したのかと思い悩んだ。
ヨセフは、石打ち刑(申命記22:13~14)ではなく、マリアへの愛ゆえにひそか婚約解消する道を選んだ(19)。
「男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい」(Ⅰコリント16:13~14)。

Ⅱ 「聖霊によって」 みごもられたイエスは・・・(1:20~23)
「聖霊によって」みごもられたイエスはどのような方か。
マリアを母とする人の子、ヨセフを法的父とするダビデの子孫(1,20)、神を父とする神の御子。
選びの民を「ご自分の民」(21)と呼ぶことのできる神ご自身、主(ヤハウェ)。
人のうちに住みこまれた「インマヌエル」(23)、ともにおられる神。
聖なる神の、聖なる霊によって、きよい処女から生まれた、(罪が無い)聖なる者(ルカ1:35)。

Ⅲ 聖なるイエスは、罪から(聖へ)の救い主(1:21)
イエスという名は、「主は救う」という意味である。イエスは「罪から救ってくださる方」(21)。
罪とは「神に逆らい、神のお心に反する、自己中心の堕落した性質」。人は根本に罪があり、この罪の心から悪い思いと悪いことばと悪い行いが出てくる。罪は神を悲しませ、神と人を断絶させ、人間関係を損ない、あるゆる悲惨のもとである。
イエスは第一に、「罪の罰」からの救い主であられる(Ⅱコリント5:21、コロサイ1:14、義認)。イエスは十字架で私たちに代わって神の前に罪とされ、その死をもって神に対して私たちの罪の贖い(償い)を成し遂げられた。それゆえ、イエスは私たちに罪の赦しを得させてくださる。
イエスは第二に、「罪の力」からの救い主であられる(ローマ6:4-7、Ⅱコリント3:17-18、聖化)。イエスは、十字架で完全に死に、死者の中からいのちに復活された。それゆえ、罪の鎖からの解放、新しいいのちの歩み(罪に打ち勝つ生活)、私たちの品性をキリストに似るものへと変革する恵みを与えてくださる。
イエスは第三に、「罪の存在」からの救い主(ピリピ3:21、栄化)。やがて罪からの完全な解放を与え、私たちをもはや決して罪を犯さぬ者、栄光のからだに完成してくださる。

婚約期間を短縮し、マリアといっしょに住む結婚生活を始めることは、世間からはいろいろ批判を受けたり、冷遇されたりするリスクがあった。しかし、ヨセフはマリアを迎え入れた。そして、彼女を迎え入れることを通して、救い主イエスを生活の中に迎え入れた。私たちも罪からの救い主イエスを生活の中にお迎えしたい。インマヌエルの主イエスは、私たちのうちに住み込みながら、日々罪からの救い主として生きてくださる。