礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年11月22日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「イエスは光として世に来た」  ヨハネの福音書 12:44~50

12:37~50はこの福音書前半部(1:19~12:50)の福音書記者ヨハネ自身による「まとめ」である。その「まとめ」の最後の部分(12:44~50)は、ヨハネ福音書前半部におけるイエスのみことばの要約、エッセンスでもある。
人々の様々な不信仰を前にしてもイエスはあきらめない。イエスはなおも救いへと招き続ける。

Ⅰ イエスにおいて人は神に出会う(12:44~45)
イエスは御父と一体の神の御子であられる。イエスを信じる者は御父を信じることになり、イエスを見る者は御父を見ることになる。
イエスを見るといっても、イエスの姿かたちを外側から見ることではない。イエスのことばとわざを通して、イエスの本質を見ることである。霊の目をもって見るのである。イエスを「神の子キリスト」と見るのである。そのようにイエスを真実に見る者は、イエスと一体なる父なる神をも見ることになり、イエスにおいて神と出会う。

Ⅱ 光なるイエスに照らされて(12:46)
イエスは光として世に来た。「世」とは暗闇の世、神に反逆する罪深い世である。しかし、神はその暗闇の世に御子イエスを遣わした。イエスを信じる者がだれも闇の中にとどまらないようにするためである。
いつもイエスに従おう。イエスのもとに身を置き、イエスともに歩もう。イエスという光に照らされ、いのちの道を歩ませていただこう。イエスは招いておられる。「不信仰や中途半端な信仰という暗がりから、わたしの光のもとに出て来なさい。わたしの前に出て来なさい。全面的にわたしを受け入れ、あなた全体をわたしにまかせて歩みなさい」、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てない」のだから(6:37参照)。

Ⅲ イエスは世を救うために来られた(12:47~50)
イエスは罪と死の支配にある世を救うため、罪と死の支配にある罪人を救うために来られた。イエスは私たちがしなければならないが、私たちが決してできないことをすべて成し遂げるために世に来られた。神への服従、十字架での贖い、死への勝利としての復活。そしてさらに、イエスは神の前に義とされて天に上げられ、御父の右の座に着き、神の前にとりなし祈っていてくださる。しかも、天から聖霊を降し、聖霊においてともにおられ、イエスを信じ、イエスと結ばれている者に豊かな救いをもたらしてくださる。そして、イエスは救いへの招きのことばを常に語ってくださるのである。
その救いへの招きのことばは、イエスを遣わされた天の御父がこれを語れとお命じになったことばである。神からの権威ある絶対的なことばなのであり、永遠から愛の交わりの中にある御父と御子が共同して語る、神の愛の中から語り出されたことばでもある。
「わたしのうちに永遠のいのちがあり、わたしを信じる者は永遠のいのちを持つ(持っている)。わたしを信じなさい」。
私たちはイエスに真剣に聞いて心から応答したいのである。

イエスは光として世に来られた。イエスを信じる者は決して闇の中にとどまらない。このイエスの御前に進み行こう。イエスのみもとに身を置こう。日ごと新たにイエスを信じ、イエスに全面的に信頼して身をまかせ、いつもイエスとともに歩んで行こう。光の道を歩ませていただこう。永遠のいのちの道を歩ませていたただこう。永遠のいのちは、イエスを信じる今日このところにあり、イエスを信じる今日ここからさらにさらに豊かに深まっていく、永遠なる神との永遠まで続く愛の交わりなのである。イエスという光のもとに身を置き続け、イエスに対して真っすぐ信仰を向けながら、永遠のいのちをさらにさらに豊かに味わわせていただこう。