礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年10月25日、蓮沼キリスト教会 宗教改革記念礼拝】
     「神の摂理に思いを向ける」   ローマ人への手紙 11:33~12:2

本日の宗教改革記念礼拝は昨年に続き、カルヴァンに導かれて「摂理」について注目したい。
ジャン・カルヴァンは主著『キリスト教綱要』(『綱要』)第1篇「創造者なる神の認識について」の第16~18章で「摂理」について論じる。摂理とは神の御業であり、神が創造した世界とそこにあるそのすべてのものを御手の内に治め、維持し、活かし、ご自身の目的のために用いることである。「神は自らの造った世界を御力によって育み、見守り、その一つ一つの部分を摂理によって導きたもう」(第16章の表題)。
カルヴァンは続く『綱要』第17章で「この教理〔摂理の教え〕が我々に益となるためには、どのように、またどういう目標に向けられるべきか」(第17章の表題)を論じる。「神がすべてのものを御手の内に治め、維持し、活かし、ご自身の目的のために用いる」という聖書が教える摂理の教えに対して、私たちはどんな態度をとることがふさわしいのか。そして、そのような態度をとるときに、摂理の教えは私たちにどれほどの益をもたらすことになるかを述べる。
カルヴァンは言う。「今関わっている〔摂理の教えという〕のは己の造り主また世界の作者との問題であることを弁(わきま)え、その方に対して畏(おそ)れと敬いとまたしかるべき遜(へりくだ)りをもって服さねばならないことを思い測らぬ人は、神の摂理について正しくかつ有益な考察を為(な)し得ない」(『綱要』1:17:2、以下同様)。「知恵はへりくだる者とともにある」(箴言11:2)。私たちが摂理について学び、摂理の教えから益を得るためには、自分が神によって造られた者にすぎず、また罪ある者であることを覚えつつ、神を見上げること、すなわち、神への畏れと敬いとへりくだりが不可欠である。
神の摂理はあらゆるものに及ぶ。まず、神は全宇宙、全世界を支え保ち、動かし、導いておられる(普遍的摂理)。とともに、ご自身が創造されたあらゆる物と生き物とを、小さなすずめ一羽に至るまで支え、養い、世話しておられ、また、人間一人ひとりに御手を伸べておられる(マタイ10:29~31、個別的摂理)。そのような個別的摂理は民族や国家にも向けられている(ダニエル5:14)。神は全宇宙、全世界と、それぞれの事物と、それぞれの生き物とを支え、導かれるが、とりわけ人類を、しかも第一にその教会を支え、導かれる。
「神の個別的摂理が信仰者の救いのために夜も休まないことを証しする約束は夥(おびただ)しくあり、また最も明らかである」(1:17:6)。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配〔配慮〕してくださるからである」(Ⅰペテロ5:7)。「神の意志なしでは神の毛一本も頭から落ちないとすれば、我々は他に何を望もうか。私は単に人類一般について語るのではない。神は教会を御自身の住まいとして選ばれたのであるから、教会を治めるべき父としての配慮を個々の証拠によって示したもうことは疑いない」(1:17:6)。「教会は神がその摂理をいとなみたもう固有の仕事場であり、その摂理の特別な舞台である」(カルヴァン『神の永遠の予定について』)。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
神が教会と信仰者の救いのために摂理をもって臨まれること、素晴らしい配慮をしてくださることを信じることは素晴らしい益を私たちにもたらす。「神は御自身の民の益と救いのために、全ての被造物を調整する配慮をされる。実に悪魔ですら神の許可と命令なしではヨブに対して敢えて試みることができなかったのを我々は考察している(ヨブ1:12)。この認識に必然的に伴うのは、順境の場合は心からの感謝であり、逆境においては忍耐であり、今後のことについては信じられないほどの安らかさである」(1:17:7)。
神がすべてをご支配し、すべてのことを私たちの益と救いのためにし配慮調整してくださるという摂理の信仰に立つ私たちキリスト者は、順調に事が運んでいるなら、ただただ神に感謝あるのみである。逆風の中に立たされた時は、神が最善になしたもうことを確信してひたすら忍耐する。「逆境に遭ったときは直ちに心を神に向けて高め、御手が我々の魂を忍耐と晴朗な思いに整えたもうことに深く感銘を受くべきである」(1:17:8)。そして、これからのこと、将来のことについても驚くほどの平安をもつことができる。
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)
私たちは、すべてのことの第一の原因は神にあることを認め、この神に常に目を向ける。しかし、「他方、我々神を恐れる者は、副次的〔低次の〕原因に目をつぶってはならない。つまり、我々は恩恵によって受け入れてくれる人を神の恵みの仕え人と考えるから、彼らを無視しないし、…むしろ彼らに負う事を心から感じ、進んで義務を尽くし、できるだけまた事情の許す限り感謝の努力をするのである。要するに、受けた恵みについては神を第一次の作者として崇めかつ讃美するとともに、人間を神の仕え人として尊敬する」(1:17:9)。神の摂理を信じるとき、周りの人たちのことを、神が恵みを施すために私に出会わせ、用いてくださった「仕え人」として心から尊ぶことができる。摂理の信仰は、隣人への心からの感謝と尊敬を生み出すのである。
神はまた人に、聖書と科学や人生経験を通してとるべき正しい手段を教えておられる。それゆえ、すべては神の摂理の御手の中にあるとはいえ、私たちは正しい手段を最善に用いる責任が与えられている。たとえば、病気が治るも治らないも神様次第だから、神に委ねて、自分は何もしないということではない。食事と運動と休息をとる、医療を利用するなどすべきことはたくさんある。神の摂理を信じるがゆえに、私たちは自分の責任を果たすのである。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(箴言16:9)。
「人の生を取り囲む禍いは数えきれず、それを脅かす死は同じだけ多い」(1:17:10)。私たちの生は危険にあふれている。運命や偶然が支配していると思うと、不安でいっぱいである。しかし、「この摂理の光が一たび敬虔な人に現れ出ると、先には極度に我々を圧迫していた不安と恐怖はもはや消え、全ての思い煩いは軽くされ、解消される」(1:17:11)。「信仰者の揺るぎない確信は、世界が定まりなく廻っているように見えても、主が至る所で働いておられることを知り、その御働きが我々の幸いになるということが確かであると信じているからでなくて何であろうか」(1:17:11)。「私たちは摂理を思い返し、瞑想し、確信を強められることがなければ、たちまちに切り倒されることは避けられない」(1:17:11)。
運命論はあきらめにつながるが、摂理を信じることは、神が配慮して備えてくださるという確信に生きることであり、患難の中でもへこたれない人生を歩むことになる。「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ8:28)と信じるからである。だから、状況を必要以上に恐れず、人のことばに過敏にならず、自己を冷静に顧み、復讐は主にゆだね、あくまでも愛を現わし、善をもって悪に打ち勝つ歩みにつながる。摂理の信仰が、神のみこころに焦点を当てながら、神にゆだね、責任をもって神に従う歩みを可能にする。
「いっさいの悲惨の中で最大のものは、神の摂理を知らぬことであり、他方、最高の浄福は摂理の認識に基づくものである」(1:17:11)。
私たちは神の愛を、神の救いを、すべてが益となる神の摂理を知る者とされている。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)