礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年11月1日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(召天者記念礼拝)】
         「主にあって喜ぶ」     ピリピ人への手紙 4:4~7

今年、私たちの教会では3名の方が生涯を全うし、主のみもとに召された。寂しい限りである。この方々がいま天にあって「主にあって喜ぶ」ということを日々深く味わっておられることを思わせられる。私たちは天の主イエスを見上げ、この主のうちにこれらの方々の存在を確かめ、彼らを偲びたいのである。
本日は召天者記念礼拝。主のみもとに召された先輩キリスト者たちのありし日の生き様を思い、私たちもその跡(あと)にならいたいと思う。

Ⅰ 主にある喜び(4:4)
私たちの置かれている状況は絶えず移り変わる。悲喜交交(ひきこもごも)である。私たちはそのような状況の中で一喜一憂する。
しかし、苦しみや悲しみがあっても、なお内から湧き出て持続する喜びがある。それは「主にある喜び」である。主イエスを信じ、主イエスに結ばれて味わう喜びである。
第一に、創造主によって生を与えられていることの喜びである。「存在の喜び」である。
第二に、人となって十字架にかかり、死からよみがえった贖い主、活ける主イエスによって、罪の赦しと永遠のいのちをいただいた喜びである。「救いの喜び」である。
第三に、御父・御子・聖霊の三位一体の神の愛に包まれ、愛されながら愛する喜びである。「愛の喜び」である。
「主にある喜び」、これが信仰の先輩たちが体験した喜びである。私たちにもその喜びが開かれている。

Ⅱ 寛容な心、主の臨在(4:5)
心がいらいらしていると、周りが見えなくなる。喜びがないと心が狭くなる。しかし、主にある喜びは心を広くする。「寛容な心」とは、「公平な心。すべての状況を考慮に入れているために、人の失敗に対して寛大で、弱点を裁かない態度」である。すなわち、赦す心である。この「寛容な心」、赦す心を生み出すのが「主にある喜び」である。
その主にある喜びは、主イエスご自身から来る。「主は近いのです」。主イエスは世の終わりまでいつもともにいてくださる(マタイ28:20)。実に、主イエスは聖霊において信じる者の内側にまで住んでいてくださる(ガラテヤ4:6)。「主はすぐ近くにおられます」(5、新共同訳)。
「寛容な心」と「主の臨在」感覚、これも先輩たちが大切にしたものである。私たちも大切にしたい。

Ⅲ 祈りと感謝、神の平安(4:6~7)
この世にあっては、私たちの中にいろいろな思い煩いが起こってくる。「何も思い煩わないで」と言われているが、どうしたら良いのだろうか。
「思い煩い」を「祈り」に転換するのである。「苦しい」と心でうめき、悶々としたり、人に訴えるだけでは終わらせない。すぐに「苦しいです。あわれんでください。助けてください」と神への祈りにする。「願い事を神に知っていただく」のである。「主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられます」(145:18)。主は近しい方として受けとめてくださる。
祈りと願いを「感謝をもってささげる」ことも大事である。神の善とあわれみを思い出して感謝し、そして今の苦しみと願いを神にささげるのである。感謝は弱い私たちが悲苦に圧倒され、押し流され、沈みこんでしまうのを防いでくれる。
思い煩いを祈りへと転換し、切なる願い事を神に知っていただくなら、「すべての理解を超えた神の平安」が主イエスに結ばれている私たちの心と思いを支配し、守ってくれる。そして、平安のうちに困難を乗り越えさせていただけるのである。
思い煩いの中での感謝の祈り、そして平安、これらも信仰の先人たちの足跡である。

主にある喜び、寛容な心、主の臨在、感謝と賛美、神の平安が、それらはいま天に満ちている。召された聖徒たちが豊かに味わっている祝福である。天と地は聖霊によって一つにつなげられている。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。天に満ちているものを、地にある私たちも聖霊にあって経験させていただこう。天に召された聖徒たちの笑顔と声援に励まされながら(へブル12:1)。