礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年10月18日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「光があるうちに、光を信じなさい」  ヨハネの福音書 12:20~36

イエスと出会うこと、そして、イエスを信じ、イエスについて行くことを選択することは、永遠的な価値を持つ。私たちが日ごとにイエスと新たに出会い、日ごとにイエスを信頼してイエスとともに歩むことを選んでいくなら、永遠のいのちはさらに豊かになっていく。

Ⅰ 死ぬなら、豊かな実を結びます(12:20~26)
イエスはギリシア人たちが会いたいと申し出たのを知って、「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言った。イエスが救い主としてのわざを成し遂げる時が来た。イエスが御父から託されたわざを成し遂げ、御父の栄光が輝き、そのことによってイエスの栄光も輝く時が来たのである。
イエスは言う。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」。「死を通して新しい生命がもたらされる」ということ。一人の人イエスが十字架で死ぬことによって、全世界の人のために与えられる永遠のいのちは現れる。イエスの十字架の贖いの死によって、信じる者はすべて罪の赦しを受け、永遠にいのちに生かされる。そして、歴史を貫き、世界に広がる神の民が形成され、キリストのからだなる教会が建てられ、愛の実が結ばれ、神の栄光が輝くのである。
「死ぬなら、豊かな実を結びます」。この一粒の麦の原理は、私たちキリスト者一人ひとりにも当てはまる。自分のいのち(自分にとって大切なもの)よりもイエスご自身を選ぶなら、自分のいのちに執着せず自分のいのちをイエスに預けて、ひたすらイエスとともに歩み、イエスに仕えていくなら、「自分のいのちを保って永遠のいのちに至ります」。私と私のすべてが、イエスの中で新しい意味を持ち、生かされ、用いられ、神の栄光が輝いていく。そして、御父の守りの中で、永遠のいのちに至る。

Ⅱ わたしが上げられるとき、すべての人を引き寄せる(12:27~33)
十字架にかけられて死ぬことは、神の御子でありながら、生身の人間の体と心と霊を持っているイエスにとっては、まことに耐えがたいことであった。罪ゆえの悲惨と呪いをその身をもって負い、神の処罰を受けるのであるから。呪われ者となって、神から捨てられるのであるから。しかし、イエスはすぐにその思いを否定してきっぱりと言う。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。すると「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう」と天の御父の声が響いた。これは御父からイエスへの激励であった。
イエスは上げられる。十字架に上げられ、世の罪を取り除く神の子羊としてさばき受ける。しかし、死から上げられる。死からよみがえらされ、永遠のいのちの源となる。そして、天に上げられる。神の御前に私たちが立つことができるようにしてくださる。イエスを信じるすべての者は、イエスのもとに引き寄せられ、イエスとともに上げられる。イエスの十字架に上げられ、裁きを受け終わった者とされる。イエスとともに死からいのちに上げられる。永遠のいのちに、神との永遠の愛の交わりに生かされる。イエスとともに天にあげられる。天の神の前に自分の居場所を据える。神の前にしっかり立つことができるようにされる(ガラテヤ2:19~20、エペソ2:6)。

Ⅲ 光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい(12:34~36)
イエスが言うことを聞いていた群衆はイエスに言う。旧約聖書によれば、キリストはいつまでも生きているはずではないか。それなのに、なぜ、キリスト、人の子は十字架に「上げられる」などと言うのか。一体全体、そういうキリスト、人の子とはだれなのか、と。
イエスが彼らと共にいる時間はもうわずかになった。だから、イエスはもはや議論しようとはしない。その代わりイエスはご自分を「光」とし、彼らに最後の訴えをする。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と。

このイエスの訴えはユダヤ人にもギリシア人にも、すべての人に突きつけられていることばである。イエスの生きている間は光がある。イエスは復活し、天に昇り、聖霊を降し、みことばを通して、教会と聖徒の交わりにおいて生きておられる。だから再臨が来るまでは悔い改めの余地がある。イエスと出会い、イエスを選ぶ時間が残されている。イエスは光であられる。そして、イエスを信じる者は光の子となる。光の中を歩む。永遠のいのちに生きる。今こそ「光を信じなさい」。