礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年10月11日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「あなたの王が来られる」   ヨハネの福音書 12:12~19

イエスのエルサレム入城の出来事。受難週の始まりである。

Ⅰ 群衆のイエスに対する間違った期待(12:12~13)
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」。群衆はこの詩篇118:25,26のことばを使ってイエスを迎えた。「ホサナ」とはヘブル語で「ホシア・ナ」(詩篇118:25)で、「今、お救いください」という意味である。
人々はイエスを約束されたメシア、油注がれたもの、イスラエルの王、救い主なる王として迎えた。彼らはイエスによって、ローマによる支配が終わり、イスラエルの政治も経済も復興して、物質的な幸福が勝ち取られると期待したのである。ローマの支配からイスラエルを解放し、彼らの民族的誇りを満足させてくれる、この世的な王としてイエスを迎えた。しかし、これはイエスに対する間違った期待であった。イエスはそのような王ではない。

Ⅱ ろばの子に乗る柔和な王イエス(12:14~16)
イエスは馬ではなく、ろばに乗ってエルサレムに入城された。
イエスは神の子であられるのに、人となり、貧しくなられ、「柔和」すなわち「へりくだって」(これが本来の意味)、十字架の死に至るまで進まれた。イエスは私たちに徹底的に仕え(マルコ10:43)、罪人の身代りとなって十字架に「上げられた」。十字架という王座に上げられた。イエスはすべての苦しみをその身に負われた。すなわち、「罪の闇」、「罪に対する神のさばき」、「神の見捨て」、「人々からの憎しみや嘲り」、「世の不条理」、「悲惨」、「死」をご自身に負われ、私たちの身代わりにそれらをすべて受けてくださった。
そして、墓に葬られたが、三日目に死者の中から「上げられた」。イエスは死からよみがえり、永遠のいのちを与える存在となられた。さらに、40日後、イエスは天の御父のもとに「上げられた」。イエスは私たちをも神の御前に立たせてくださるのである。イエスは自らが十字架につき、復活し、天に上り、イエスにつく者に、罪の赦しと永遠のいのちと神の子としての身分を与えてくださる。罪の赦しによる神との平和、心の平和、人との平和をもたらしてくださる。そのようなメシア、救い主なる王であられる。

Ⅲ パリサイ人たちの焦り(12:17~19)
飛ぶ鳥落とす勢いのイエスにパリサイ人たちは何もできず、焦るばかりだった。自分たちの権威の失墜、独立運動が盛んになってローマが軍隊にやられる。彼らは恐れた。

イエスは外から、力をもって支配するのでなく、天からみことばと聖霊をもって、しかも私たちの内から変革する救い主なる王であられる。
柔和な王イエスは私たちを厭わず、蹴散らさず、私たちの生活に、問題に、人間関係に、心に入って来て救ってくださる。罪の赦し、永遠のいのち、聖化、聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、ガラテヤ5:22~23)を与えてくださる。主イエスは私たちを背負い、私たちに仕え、私たちを覆い、慈愛深いご自身を私たちに顕わしてくださる。
「栄光の王が入って来られる。栄光の王、それはだれか。万軍の主、この方こそ栄光の王」(詩篇24:10)。イエスを日々の生活に、心の内に、喜び迎えよう。あなたの王が来られる。