礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2020年10月4日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】 「キリストの香り」 ヨハネの福音書 11:55~12:11 「あなたの名は、注がれた香油のよう」(雅歌1:3)。イエスは香(かぐわ)しい方。私たちにとって最愛の方。なぜなら、イエスはご自身のすべてを私たちに与え尽くして私たちを永遠のいのちに生かしてくださる方だから。 ベタニアで死んで4日も経ったラザロをよみがえらせたイエス(11:17~44)は、エフライムの町に退避した後(11:44)、再びベタニアに来られ、香油注ぎを受ける(12:1~8)。「死人のよみがえり」の場所ベタニアが「葬りの備え」の場所ともなった。イエスの死の意味を深く思わされる。 Ⅰ お尋ね者イエス(11:55~57) イエスの公生涯における最後の過越の祭りが近づいていた。人々は神殿での立ち話で、イエスが過越の祭りにエルサレムに来るかるかどうかを話題にして盛り上がっていた(56)。祭司長たちとパリサイ人たち、すなわち、最高法院はイエスを殺すことを正式決定しており(50,53)、イエスの居所を知っている者は届け出るようにと人々に命令を出していたからである(57)。 儀式的に身を清めても、思いとことばを清めることのない人々の姿をここに見る。 Ⅱ イエスを囲む食卓で ~マリアとイスカリオテのユダ~(12:1~8) イエスは過越の祭りの6日前にベタニア来られた(1)。そして、過越の祭りの2日前にツァラアトに冒された人シモンの家で、イエスを主客(主人公)とする夕食会が行われた(マタイ26:2,6、マルコ14:1,3)。マルタ、マリア、ラザロの3人もそこにいて、それぞれイエスに対する心からの感謝をもって、「自分にできること」をしながら(マルコ14:8)イエスへの愛をあらわした(2~3)。 マリアはイエスに香油を注いだ(ヨハネ12:3)。彼女はすべてを注ぎ与えてくださるイエスに彼女の宝とういうべき高価な香油をすべて注いでしまった。 イエスの弟子集団の会計係イスカリオテ・ユダ(6、13:29)が「香油を300デナリで売って貧しい人に施せばよかったのに」と文句を言うが、彼は徹頭徹尾、打算的で、弟子集団の金を盗んでおり、この直後わずか銀30枚(マタイ26:15)、奴隷ひとりの売値でイエスを祭司長たちに引き渡す約束をする。 マリアの行為は予想外のすばらしい効果と結果を生み出した。第一にイエス自身がとびきり喜んでくださった。第二にイエスの埋葬の用意になった(7)。第三に福音に対する応答としてふさわしい行為として、伝えられ記念されるものとなった(マタイ26:13、マルコ14:9)。 Ⅲ ラザロをも殺す計画が(12:9~11) イエスがベタニアに来たことは、すぐに皆が知るところとなり、大勢の人がイエスを、そして、死からよみがえったラザロを見にやってきた(9)。イエス人気が高まったのはイエスがラザロをよみがえらせたからである。というわけで、「祭司長たちはラザロをも殺そうと相談した」(10)。ユダと同様、罪を重ねて行くことの恐ろしさを見る思いである。罪はさらに罪を起こし、堕落の悪循環に陥る。 最後に考えたい。マリアがイエスに「純粋で、高価な」香油と愛を注ぐことができたのはなぜか。彼女自身がまず、神の「純粋で、高価な」愛を、イエスによっていっぱい注がれていたからにほかならない。彼女はイエスとの親しい交わりの中に身を置いてきた(ルカ10:42、ヨハネ11:28~29)。それゆえ、彼女は福音にふさわしい行為をイエスにささげることができたのである。 福音とは、神が私たちに注いでくださった「純粋で、高価な」愛である。神の愛は打算なしで見返りを求めない。ただ愛するがゆえに行為してくださる「純粋」な愛である。また、まさに全存在をかけ、命懸けの「高価な」愛である。神は、罪人である私たちが罪の中に滅びないように、私たちに純粋な愛を向け、本当に高価な御子イエス・キリストを与えてくださった。イエスを十字架につけて身代わりの犠牲となし、私たちの罪をイエスにおいてさばき、死なせて葬り、そして、イエスを永遠のいのちによみがえらせ、イエスにおいて罪の赦しと永遠のいのちを豊かに与えてくださる。この事実、これが福音である。神はこの福音の「純粋で、高価な愛」を、イエスにおいて、ただで、あふれるばかりに注いでいてくださる。 マリアのようにイエスの足元にすわり、十字架と復活のイエスを見上げ、福音の宣言を聴き、このイエスを通して、聖霊によって(ローマ5:5)注がれてくる神の純粋で高価な愛を受けとめ、味わいたい。そのような中で、イエスへの、また、神への純粋な愛が私たちの内からも湧き出し、神の喜びが心にあふれてくる。日ごとに神の愛をいっぱいに注ぎ受けながら、神と隣人へ愛を注ぎ出す者とさせていただきたい。 |