礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年9月27日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
          「バベルの塔」 創世記 11:1~9

ブリューゲル(16世紀)の絵画「バベルの塔」は人間のエネルギーが迫ってきて圧巻である。しかし、「人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」(ウェストミンスター小教理問答 1)。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)。

Ⅰ 人々の高ぶり ~塔の建設~(11:1~4)
人々は一つの共通の話しことばをもって互いに意思の疎通ができた(1)。
全地に増え広がり、地の能力を最大に引き出すことが主のみこころであったが(1:28、9:1)、人々はそうせず、都市に集住していた(2)。
建築材料は「石と漆喰」から「れんがと瀝青」に。文明の発達、技術の進歩である(3)。
思考力、創造力、技術力、協議し協力する能力はみな神からの賜物。感謝しつつ、神のみこころにかなうように用いるべきだが、人々はその能力を感謝せず、わがものと思い、神と張り合うため天に届く塔を建てようとして一致団結する。神の栄光と人々の福祉のためではない。自分たちの「名をあげ」る神への挑戦。「散らされるといけないから」、自分たちの好き勝手にできる居場所がなくなることへの恐れ。ここに神に対する尊敬と信頼の欠如を見る(4)。

Ⅱ 神の嘆き ~介入とさばき~(11:5~7)
「主は見るために降りて来られた」。主はいと高き方。大いなる方。神の前に人間は被造物にすぎず、極小の存在。しかし、神はいつも人に注目しておられる(5)。
人々は協議し、協力して神に逆らう悪を実行している。「不可能なことは何もない」、何でもできると思いこみ、何でもしでかそうとする。神は嘆き悲しまれた(6)。
神は人々の中に介入し、さばきを下すことを決意する。「彼らが隣人(または友)のことばを聞かないようにしよう」(7、直訳)。神は人々の意思疎通能力を不能にした。彼らの一致団結は自己中心を動機としていたので実はもろく、結束は直ちに崩壊した。

Ⅲ 人々の再出発 ~話しことばの混乱による離散~(11:8~9) 
神の介入でことばが混乱され、人々は「地の全面に散らされた」(9)。人々はこの神のさばきを受けとめ、神の前にへりくだり、神のみこころにしたがって再出発すべきであった。しかし、そうはしなかった。
でも、神はあきらめない。この後、神はアブラハムを選び、彼の家系を通し「地のすべての部族」が「祝福される」とした(12:1~3)。時至って、イエス・キリストの受肉と生涯と十字架と復活と昇天と聖霊降臨により、天地はしっかり繋がり、信じる者は民族や言語を越えて一つとされる。

 ペンテコステの日の聖霊降臨はバベルの塔の反対の出来事。聖霊によって、信じる者は同じ福音(みことば)を共有し、イエスにあって、それぞれの言語、話しことばを超えて一つにされる。主イエスを信じる者は、みことばと聖霊による一致をもって、キリストのからだを建てていく(エペソ1:22~23)。教会に集められて主を礼拝し、教会の礼拝から主によって派遣され、全存在をもって福音を証しし、キリストの愛をもって世に仕える。この集中と拡散の繰り返しの中で、キリストのからだなる教会が建てられ、神の栄光が世に現れ、神の国(神の愛の支配)は前進し、永遠の御国へと至る。私たちはバベルの塔の出来事を他山の石、反面教師とし、高ぶりを棄て、いよいよへりくだって主を信頼し、主に従う道を歩ませていただこう。