礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年9月20日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
     「一人の人が代わって死んで」   ヨハネの福音書 11:45~54

イエスはラザロを死から取り戻した。しかし、それゆえにイエスは十字架の死に渡される。

Ⅰ イエスがなさったしるしを前にして(11:45~47)
イエスがラザロを死からよみがえらせたことは、イエスがキリスト(メシア、救世主)であることの決定的な「しるし」(証拠としてのしるし)であった。多くの者がイエスをキリストだと信じたが、イエスに背を向ける者もいた。
信仰は神が聖霊によって与えてくださる恵みである(Ⅰコリント12:3)。私たちは信仰という恵みの賜物を感謝しつつ、さらに与えられた信仰を大切に育んでいくべきである。
しるしを見て信じるだけの信仰をイエスはあまり信用しない(2:23~24)。しるしはたしかに人の心を動かす。しかし、イエスの前に出て、イエスに心開き、イエスのことばを聴くことによって、イエスに信頼する生きた信仰は引き出され、神の栄光を見る(4:50、9:37~38、11:20~27,29,39~40)。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストのことばを通して」(ローマ10:17、直訳)。

Ⅱ 大祭司カヤパの発言(11:48~54)
ユダヤ最高法院の議員たちは、イエスのしるしを見てイエスを信じる者が増えると、イエスが王となり、ローマからの独立運動が過熱し、結果としてローマによって神殿は破壊され、国は滅ぼされ、民は離散させられてしまう。何とかしなければと審議する。
その年の大祭司でカヤパが発言する。「イエスを殺せばそれで万事はうまくいく。イエス一人を殺して、国民全体が滅びないほうが得策である」。議会は賛同し、イエスを殺すことは既定方針なる(53)。イエスは指名手配された「お尋ね者」になった。ひどいことである。悲しいことである。
カヤパの発言はまったく政治的、人間的な意図からのものであった。究極的には自分の利益やプライドを守るためのもの、自己保身以外の何ものでもなかった。しかし、福音書記者ヨハネはこのカヤパのことばに、神の救いに関する預言を見て取る。
イエスが人類の罪のために自らのいのちを十字架に捨てること。その十字架の死によって人類の罪の贖い(罪の償い、罪への処罰)が成し遂げられること。そのイエスの死のゆえに、すべての信じる人が罪から贖い出され、神の民としてひとつに集められるということ。これら神のご計画が実現していくことの預言として、福音書記者はカヤパのことばを読み取った。罪なき神の御子イエスを殺すという人類史上最も大きな罪が、最も大きな祝福をこの世にもたらすものとなった。神はすごい!

暗黒が覆っているかのように見え、絶望することもしばしば。しかし、神は絶対主権を持ち、歴史を支配し、人間の世の様々な悪をも貫いて、ご自身の救いの計画を成し遂げられる。復活の主イエスを仰ぎ、神を信頼し、聖霊の導きに身をゆだねて前に進もう。