礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年8月16日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「わたしはよみがえりです。いのちです」 ヨハネの福音書 11:17~27

イエスはラザロを復活させる前に、マルタから活きた信仰を引き出す。これも奇跡。

Ⅰ イエスがべタニアに来られ、マルタはイエスを出迎えた(11:17~20)
マルタとマリアの弟ラザロは死んで墓に入れられて四日たち、すでに腐敗が始まっていた(17,39)。死という現実を前に人はどうすることもできない。
イエスは弔問客として遺族の所にではなく、死者ラザロの所に赴く復活の主(11)として来られた。マルタは「悩む者の家」(べタニア)を出、村の外にイエスを出迎えた(30)。イエスのことばを聴き、イエスと対話し、イエスから恵みを得るためである。
死の現実の中でも希望はイエスにある。

Ⅱ マルタの復活といのちについての信仰(11:21~24)
マルタはイエスに信仰を表明する。イエスは病をいやし、いのちを支えてくださる方(21)で、罪なき方(9:31)、御父と一つになっておられ(10:30)、その祈りは神に100%聞かれ、絶望的な状況の中にも希望と慰めの光をもたらしてくださる(22)と。しかし、死んだ者に今ここで復活といのちをもたらすことができるとは考えられなかった。
イエスはラザロがよみがえると宣言する(23)。マルタは「死んだ者はいのちなく、死者の領域である“よみ”に置かれ、歴史の終わり、最後の審判の時によみがえる(ダニエル12:2)」とユダヤ人一般の信仰箇条として知っていた。復活は漠とした遠いかなたのことだった。

Ⅲ マルタから引き出された復活といのちの主イエスへの信仰(11:25~27)
「わたしはよみがえりです。いのちです」(25)。イエスは主(ヤハウェ)なる神であられ(出エジプト3:14)、復活といのちの根源(1:4)、復活といのちの主。しかも十字架で罪人のための贖いの死を遂げ、3日目に死から復活し、罪によって世に入った死(ローマ5:12)を打ち破った方。復活のいのちに生き、復活のいのちを与える方。
それゆえ、復活であり、いのちであるイエスを信じ、このイエスに結ばれている者は死んで墓に葬られても、イエスの力で終わりの日に永遠のいのちによみがえらされる(25、5:21,29)。そのイエスを信じたその時から、神との分離・分断としての本質的な死を永遠に経験することはない(26)。いつも、永遠に神との愛の交わり(終わりなき生命)の中に置かれ、生かされていく(Ⅱコリント5:8、Ⅰテサロニケ4:13,14)。
「このことを信じますか」とイエスに問われ、マルタはイエスを「キリスト、神の子、世に来られる方」と信じて来たし、今も信じていると信仰を告白する(26b~27)。イエスのことばを聴き、彼女の活きた信仰が引き出される奇跡が起こった。彼女は、よみがえりであり、いのちであるイエスへの信仰と希望によって生かされていく。

復活であり、いのちであるキリストが、いま私のところにも来ておられる。ハレルヤ!