礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年8月9日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(平和祈念礼拝)】
              「平和を求めて祈る」     エレミヤ書 29:1~14

 「平和祈念礼拝」にあたり、平和の大切さを覚え、平和を念願し、平和を求めて祈ろう。

 預言者エレミヤは、ユダの滅亡・捕囚期の40年にわたり主のことばを語った。ユダ王国は神に対する不信の罪のゆえにバビロン帝国に脅かされ、滅ぼされる(前586年)。民はバビロンに捕囚として引いて行かれる。
しかし、エレミヤは大胆に主のみこころを捕囚の民に告げる。 故国から離された寄留の民として生きることを恐れてはならない。偶像礼拝は別としても、寄留の地バビロンに根を張って市民として生活を営め。「生めよ。増えよ」(創世1:28)。主の愛のご支配の下、主を信頼し、神の民の良き文化をその地で築いていくように。
そして言う。「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから」(7)。「平安」(ヘブル語のシャローム)は、平和、繁栄(詩73:3)、健康(詩38:3)、和解・講和(ヨシュ9:15、Ⅰ列20:18)をも意味する包括的な語。ユダの民だけでなく、異民族・異教徒を含めたその町と住民すべての人の「シャローム」を主に祈り求めて行くように。その町と町の人みんなのシャロームが自分たちのシャロームにもつながる。そして真のシャロームがやがて達成される(11)。

人は神によって「存在」(創世1:1)と動的「生命」(同1:21)と「人格」(神のかたちとして愛と自由に生きる存在)(同1:27)を創造された。平和とは、人間の存在と生命と人格(愛し愛されること、自由)が、神のみこころの通りに尊重され、守られ、いよいよ輝いていくことができる恵みの状態である。平和は究極的には神がつくる(イザヤ45:7)。ゆえに神に平和を祈り求めるのである。
人の罪は平和を阻害する。人の神との関係が真の平和の要である。真の平和の懸け橋は主イエス・キリスト(エペソ2:14)。
平和は多方面わたり、そして全世界を視野に入れて、祈り求められなければならない。①キリストへの信仰によって義と認められ、罪赦されることによる神との平和(ローマ5:1)、 ②罪の赦しとキリストの聖霊の内住による心の平和(平安、同5:5)、③キリストにある者同士の敵意を乗り越えた聖徒の交わりにおける平和(エペソ2:11~22)、④平和をつくる神の子たちがつくる国々、人々の和解による平和(マタイ5:9、ローマ12:18、へブル12:14)、⑤神のみこころにかなった管理による被造物との平和(調和)(創世2:15、ローマ8:19~22)を。

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:1~4)
平和の課題は至極身近であり、かつ、世界大、宇宙代のものでもある。自分の小ささと弱さ、そして、平和づくり召されている使命と責任の大きさを覚えながら、ひたすら神に平和を祈り求め続けていこう。平和の君イエス・キリストに期待し、イエスの御霊にゆだねながら前に進んで行こう。平和のために小さな一歩を踏み出し、平和のために小さな一石を投じ続けて行こう。それは神の御前で決して小さくはない。