礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年8月2日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
           「神の栄光のため」    ヨハネの福音書 11:1~16

イエスがラザロを復活させた奇跡は、ヨハネの福音書における第七のしるし、最大のしるしである。

Ⅰ 「この病気は死で終わるものではない」(11:1~6)
ベタニア村の姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが瀕死の病気であった。べタニアはエルサレムの南東3キロメートル、オリーブ山の斜面に広がる小さな村。姉妹たちはイエスのもとに使いを送った。マルタとマリアの住んでいたべタニア村からイエスが滞在していたヨルダンの川向うのもう一つのべタニア(10:40、1:28)までは一日の道のりであった。
マルタとマリアは期待した。イエスは最愛の友としてラザロを愛していてくださるのだから、す
ぐにでもラザロを癒やしてくださると。しかし、彼女たちの期待に反して、イエスはなお二日、ヨルダンの東のべタニアにとどまられた。ラザロが死んで、墓に葬られ、四日もたって腐敗し始め、そのラザロをイエスが復活させることによって、神の栄光が輝き、いのちを与えるイエスの栄光が現わされた。そして、マルタとマリア、ラザロ本人、弟子たちを始め、人々のイエスへの信仰と信頼はますます強められ、豊かにされていった。皆がイエスの圧倒的な愛を体験させられたのである。「キリストとその復活の力」を思い知らされることになったのである(ピリピ3:10)。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。イエスの愛はまさに「人知をはるかに超える愛」(エペソ3:19)である。
神のお考えは私たちの理解を超えていることが多い。しかし、どんな状況においても、神は、御父とイエスと聖霊は、私たちを愛しておられ、必ずや最善のことを成し遂げてくださり、ご自身の栄光を現わしてくださる。私たちの生活の中に起こりくる辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、しんどいこと、めんどくさく厄介なこと、不可解なことを前にして、私たちは「なぜこんなことがあるのか?」と呻きながら神に問いたくなる。イエスに文句を言いたくなる。しかし、「なぜ」と問うのではなく、「何のために」と問いたいのである。「なぜ、神はこんなことを与えたのか」と原因を問うても、十分な答えは見いだせない。それは神の神秘に属する事柄だからである。しかし、「何のために」と問うなら、それは神の栄光につながることのためであり、その辛いことを通してキリストが栄光をお受けになるのだ、キリストの力が現れるのだと知らされる。「何のためなのか」、すぐにはわからないかもしれない。しかし、神がその辛いことを通して私を導き、私をお取扱いになり、私を活かし、私の存在と私の経験とを用いて、ご自身の栄光が現われるようにしてくださる。私たちはこの主なる神を信頼し、また友なるイエスを信頼して、忍耐しながら、希望をもって、前に進んで行こう。死、闇、絶望では決して終わらない。ローマ5:4~5.

Ⅱ 「友ラザロは眠ってしまった。わたしは彼を起こしに行く」(11:7~16)
二日が経過し、イエスは決然と「ユダヤに行こう」と言われた。これを聞いて弟子たちはおじけづいた。ついこの間、宮きよめの祭りのとき、エルサレムの人々はイエスを石打ちにしようとしたからである(10:31)。しかし、イエスは言うのである。まだ昼間、働く時、メシアとして宣教活動をする時である。闇の時、イエスが捕らえられ、十字架につけられる時はまだ来ていない。だから大丈夫だ。おじけることはない、と。
イエスはラザロが死んだことを知っていた。しかし、イエスはラザロの死を「眠り」と言う。聖書はなぜ死を「眠り」と言うのか。死の後に復活があるからである。死は消滅ではない。眠る人のように一時的に死の床に、棺の中に、墓の中に横たわるが、また復活して起き上がるからである。
イエスはラザロの復活という大いなる希望を語っていたのに、また弟子たちの信仰が大きくされるというよろこばしい希望を語っていたのに、トマスはイエスの言うことがまったく理解できなかった。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」(16)。トマスはヨハネの福音書において、ここと14:5と20:24~27に、彼の語ったことばが出て来る。彼はいつでも物事の消極的な面、暗い面を見てしまう。状況は悪くなると考え、疑いと恐怖心をあおるような姿で登場する。トマスは死の向こう側にあるものに思いを致すことができないのである。こんなトマスもやがて死からよみがえられた復活の主イエスと出会い(20:24~27)、死の向こう側にあるいのちに触れ、十二弟子の中でだれよりも遠くインドまで、いのちの主イエスを伝える宣教に赴いた。

イエスは私たちのまことの友。死から復活されたお方としてとことん付き合い、私たちを常に助け立ち上がらせてくださる。神の御子イエスとの交わりは死よりも強く、墓のかなたにまで及ぶ。神として、また友として、イエスの愛は決して絶えることがない。