礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年7月5日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】  
                「わたしは良い牧者です」 ヨハネの福音書 10:11~21
 
羊はとても弱い。だから、群れの中にいることが必要。そして、何よりも羊飼いが必要。旧約聖書は、神が神の民の真の羊飼いであり(創世48:15、49:24、詩篇23:1、80:1)、神の民を牧する一人の牧者を起こすと告げる(エゼキエル34:20~24、37:21~24)。
私たちはイエスの羊。イエスは私の名を呼び、私は応えてついて行く(3~4)。イエスは良い牧者、羊たちのためいのちを捨てる(11,14,17~18)。何ゆえそうするのか。何のためにそうするのか。

Ⅰ 私たちをますますご自身のものとするため(10:11~13)
イエスは言う。「わたしはある。良い牧者である」。この「わたしはある」とは、主(ヤハウェ)の御名を想起させる(出エジプト3:14)。イエスは主なる神、かつ、人となって人に寄り添う最良の牧者。
「雇い人」(パリサイ人に代表される偽牧者)は羊を救わない。イエスは羊である私たちのためにご自分のいのち(全存在)を捨てる(与える)。何ゆえか。私たちをご自分の所有である宝とし、心にかけているから。
何のために。「狼」(悪魔、罪、悲惨、刑罰、死)の前にご自分が立ちはだかり、それらと戦い、しかも、自らがそれらを引き受けて死に、自らの死をもってそれらを滅ぼし(へブル2:14)、それらに勝利してよみがえり、私たちをご自身のものとして御手のうちに取り戻すため。そして、ますますご自身の配慮の中に堅く置くためである。イエスはご自身の受肉とご生涯と十字架と復活によって、罪と滅びの中にある私たちのために贖いを成し遂げ、イエスを信じる私たちを死からいのちに移し(5:24)、ご自身の御手の中にしっかりと置いてくださった(28b)。

Ⅱ 私たちをますますご自身との親密な交わりに生かすため(10:14~15)
イエスは羊である私たちのためにご自分のいのち(全存在)を捨てる(与える)。何ゆえか。相互に知り合う親密な関係にあるから。「知る」(14)とは「愛する」こと。しかも、御父と御子が互いに全存在を与え合うほどに愛し合っているのと同じ親密さで、イエスと私たちは知り合っていると言うのだ。
イエスはそのような愛の交わりの中に私たちをますます活かすため、受肉と十字架と復活を通して私たちのために贖いをなし、信じる私たちを罪と滅びと死から救い出してくださり、愛の交わりへと導き入れてくださった。
十字架のイエスを見上げる時、神の愛が身に沁み、私たちはイエスをさらに愛するようにされる。

Ⅲ 私たちをますます一つの群れとするため(10:16~21)
イエスは羊である私たちのためにご自分のいのち(全存在)を捨てる(与える)。何のために。この囲いに属する羊(ユダヤ人)とそうでない羊(異邦人)を一人の牧者に導かれる一つの群れとするため。
すなわち、キリストをかしらとする一つからだ(公同の教会)を造るためである。父と子が一つであるように、「彼らが一つになる」(17:22)ためにこそ、イエスは御父のみこころに従い、ご自分の権威と意思をもって十字架で死なれた(エペソ2:15~22)。

イエスは今日も福音の愛をもって呼びかけておられる。「あなたを愛している。あなたのためにいのちをも捨てた。わたしは十字架であなたの罪を贖い、よみがえって永遠のいのちをあなたの前に開いた。わたしはわたしの全存在を与える。わたしを信じなさい。信頼しなさい。わたしを神の子キリストと信じて、永遠のいのちに生きなさい」。
このイエスの福音の呼び声に真実に応答させていただこう。そうする時にのみ、キリスト者は愛のうちに形成されていく。そうする時にのみ、教会はこの世にあってキリストのからだとして形成され、三位一体の愛の神の臨在を現わすものとされる。