礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年6月28日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
                       「嵐を静める」 マルコの福音書 4:35~41
 
私たちの人生には嵐が起こる。しかし、その只中に主イエスがともに近くいてくださる。

Ⅰ まことの人であられるイエス(4:35~38a)
「その日」(35)一日中、イエスは舟の上から群衆を教えられた(1~2)。イエスはその舟に乗ったまま弟子たちと「向こう岸に渡ろう」となさった(35)。イエスは神の御子であられたが人間となられ、疲れて眠った(38)。激しい突風と大波による大揺れの中でも目覚めないほどに。
イエスは全き人、人の中の人。人が本来あるべき生き方をされた。神と近く交わり、神にあって平安に生きる生き方を。イエスは父なる神に向き合い、父なる神に100%の信頼を置いておられた。父なる神への絶対的信頼ゆえに、大嵐の大揺れの中でも安心して眠ることができた(詩篇3:5、4:8)。イエスこそ、まことの人、全き人であられる。

Ⅱ イエスはまことの神であられる(4:39,41)
ガリラヤ湖では時折、突然の激しい嵐が起こる。この時は特に激しかった。イエスは風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と命令された。「すると風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった」(39)。
神はことばをもって命じて自然界を創造された(創世記1章)。神のことばは必ず事を成し遂げる(イザヤ55:11)。イエスもここで、ことば一つで自然界をコントロールされた。イエスはまことの神にほかならない。
弟子たちはイエスのまことの神の力を目の当たりにし、新たな恐怖、畏れおののきが湧き起こり、「いったいこの方はだれなのだろう」(「まことの神、天地万物の創造者、支配者にほかならない!」)と叫ぶしかなかった(41、コロサイ1:16~17)。イエスは全き人であるとともに、まことの神であられる。

Ⅲ 「まだ信仰がないのですか」(4:38b,40)
イエスの弟子たちは、イエスを責めて言う。「先生、私たちが死んでも、かまわないのですか」(38) 私たちもそんなときがある。イエスの愛を疑うときがある。しかし、愛の主イエスがともにいてくださるのだから、絶対大丈夫なのである。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。
しかしそれでもイエスへの信頼がぐらついてしまうことが。イエスは言われる。「まだ(これっきりしか)信仰がないのですか」(40)。「信仰が全然ない」と叱っているのではない。信仰がまだこれしかないことへの素直な驚きである。「わたしは天のお父様と一緒にいる。まったく平安である。そのわたしがあなたがたと一緒にいるのだから、絶対大丈夫なはずなのに、どうして?」とイエスは驚かれる。
イエスは、私たちのイエスへの信頼がもっと大きくなるのを切に望んでおられる。だから試練を通して、私たちとともにおられるイエスへの信頼を成長させてくださる。このように愛の主は常に私たちをご自身へと引き寄せられる。

私たちにも嵐が来る。外側の嵐に反応して、心の中はさらに騒然とさわぎ立つ。主イエスは外側の嵐に対しても、心の嵐に対しても「黙れ、静まれ」と言われる。嵐を静められる。
静かにして、主イエスと主イエスがなしたもうことにこそ目を向けさせていただこう。「黙れ、静まれ。」「汝等しづまりて我の神たるを知れ」(詩篇46:10、文語訳)。