礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年6月14日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
           「主よ、信じます」 ヨハネの福音書 9:35~41
 
生まれつき目の見えなかった男が、イエスによって癒された。イエスを嫌い、イエスがメシヤでは困ると考えたパリサイ人たちから、男はあれこれ尋問される。彼は癒しの恵みをくださったイエスに終始心を向け、イエスへの思いと理解は、「イエスという方」(11)、「あの方は預言者」(17)、「神を敬い、神のみこころを行う者」(31)、「神から出た方」(33)と深くされていく。彼の霊の目が開かれていく。結果、彼は会堂(ユダヤのコミュニティ)から追放されてしまう。

Ⅰ あなたと話しているのが、人の子です(9:35~38)
イエスは彼を見つけ出す(35)。「私の父 私の母が私を見捨てるときは 主が私を取り上げてくださいます」(詩27:10)。
イエスは招く。「あなたは人の子を信じますか」(35)。「人の子」とは、天と地をつなぐ存在(1:51)。至高の「天から下って来」て、十字架に「上げられ」、至高の天に「上げられ」る者(3:13~14)。信じる者に「永遠のいのち」をもたらす者(3:15、6:53)。真のさばきの権威を持つ者(5:27)。すなわち、メシア(キリスト)、救い主、神の救いそのものとも言うべき存在。
「あなたは救い主を信じるか」。彼は「信じたい」と答え、「その人はどなたですか」(36)とイエスに問う。彼は観念的に信じようとしたのではない。救い主と対面し、その救い主に我が身をゆだねていきたいと願った。
「あなたと話しているのが、その人です」(37)。救い主は目の前にいた! 彼は「主よ、信じます」と言ってイエスに自分をゆだね、イエスにひれ伏し礼拝する(38)。彼は今やイエスのうちに神の救いを見た(ルカ2:30)。彼の霊の目は完全に開かれ、彼の前に神の国、永遠のいのち(永遠の愛の交わり)が開かれた。

Ⅱ さばきのために世に来た(9:39~41)
イエスは人を罰しさばくためではなく、救いをもたらすために世に来た(3:17、8:15、12:47)。しかし、イエスが来られた結果、そこに「さばき」(区別、捌き)がもたらされる(3:18~21)。
一方で、霊的に見えていないと自覚する者が見えるようになる。イエスが救い主であると見えていき、イエスを信じて新しい世界が開けていく。一方、霊的に見えていると錯覚している者が、見えていると錯覚しているがゆえに真の光なるイエスを無視し、さらに真理が、恵みが、神の国が見えなくなる(39)。謙遜な人はイエスに頼って霊的によみがえり、「私たちは(霊的に)だれよりも見える」と言い張る傲慢な人はイエスに抗い、堕落の淵に沈んでいく(41)。

私たちは「イエスのゆえにこんなつらい目に会っている」と嘆き、恵みが見えなくなるときがあるかもしれない。そんな時こそ、イエスはなおなお私たちに近づき来られ、「あなたは人の子を信じるか」「神の救いを信じるか」と問われる。みことばと聖霊においていま、ここに臨在されるイエスに、「主よ、信じます」と身をゆだねよう。そこに礼拝が始まり、神の国、永遠のいのちが開かれる。