礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年6月7日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
               「神から出た方」 ヨハネの福音書 9:24~34
 
子供や若者はちょっと見ぬうちに驚くほど成長していることがある。信仰もそうありたい。
キリスト者として大人になること、信仰の成長・成熟とは、神に全面的に頼りながら一人で立つこと。イエスはそこに私たちを招いている。
イエスによって盲目を癒されたこの人は、両親から見放され(21~23)、一人でパリサイ人たちによる再度の尋問を受け(25~34)、自分のことばで信仰を語り(25~34)、会堂(ユダヤのコミュニティ)から追放される(34)。この過程を通じ、彼はいよいよ光が増し、信仰的に大人になる。こうして「神のわざ」(3)がまたも現れたのである。

Ⅰ 恵みの出来事にとどまる(9:24~25)
ユダヤ宗教議会(サンヘドリン)の多数派パリサイ人たちは、これまでの尋問を通し、この男が盲目で生まれついたこと、イエスのわざによって癒されたことを確認した。しかし、イエスがメシアだと認めることになる(イザヤ29:18、35:5、マタイ11:5)ので、イエス自身が癒したことは否定したい。そこで彼らは男を再尋問し、神が男を癒したのであり、安息日を破るイエスは罪人であって(16)、罪人イエスが男を癒したのではない、と言わせようとする(24)。
彼らは一人立たされた彼を揺さぶるが、彼は「私は盲目であったのに、今は見える」という恵みの出来事にとどまる(25)。彼は神学議論せず、恵みの事実に立脚する。取るに足りない私が神からあらゆる恵みを受け、イエスから救いの恵みもいただいている。この喜びに生きよう。

Ⅱ イエスにまっすぐにまなざしを向ける(9:26~27)
イエスを断罪しようと策を弄し、男から恵みの事実を突きつけられ、かえって窮地に追い込まれたパリサイ人たちはどうしたらよいかわからず、苦し紛れにすでに聞いた同じ問い(15)を発する(26)。
男は「すでに話したのにまたか」と苛立ち、皮肉を込めて「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのか」と言う(27)。男は自意識においてはすでにイエスの弟子なのであり、イエスを横目ではなく、まっすぐに見る者となっていた(アウグスティヌス『ヨハネ福音書講解説教』)。彼は恵みをくださったイエスに直ぐなまなざしを向ける。私たちもそうであるべき。まっすぐイエスを見る者は、ひとり立ちして前進できる(マタイ14:28~31)。

Ⅲ イエスにある神の愛の迫りを受けとめる(9:28~34)
パリサイ人たちは激高して言う。「おまえはイエスの弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神はモーセに語ったが、イエスはどこから来たのかわからぬ馬の骨」と(28~29)。男は答える。「イエスは生まれつきの盲人である私の目を開けた。罪人ではない。心と行為において神との真実な関係に生きている方。だから神はイエスの祈りを聞かれた。イエスは神から出た方である」と(30~33)。
彼はイエスにまなざしを向けつつ、イエスは神が世に遣わした方と悟り、イエスにある神の愛の迫りを受けとめた。弟子は主の愛にとどまり続ける(15:9)。

キリスト者としての成長・成熟とは何か。第一に与えられた恵みを覚え、その恵みをいつも感謝し続けること。第二に、恵みをくださったイエスに、また、恵みを与え続けてくださるイエスに、ひたすら目を注ぐこと。そして、第三に、イエスにおいて注がれる神の愛に心開き、イエスにおいて迫って来られる愛の神の迫りを受け入れること。イエスの愛にとどまることである(15:9)。
私たちのキリスト者生活の中にも、いろいろつらい時がある。しかし、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(へブル13:8)。荒波が立つとき、実はそこにイエスがおられ、私たちを信仰の成熟へと招いておられる。ひとり神の前に立つ大人のキリスト者とし、そして、主体的に一人一人に愛の手を伸べる良きしもべとして、いよいよ磨きをかけようとしてくださっている。招いておられる主の御手にわが身をゆだねたい。