礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年5月24日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】   「今は見える」 ヨハネの福音書 9:13~23
 
イエスは「世の光」(8:12)。私たちに触れ、霊的視力を回復し、苦難を通し、ご自身によって神を拝させてくださる。目が開かれた人は、さらにイエスを見知っていくことが大切(12)。

Ⅰ 見えるようになった人へのパリサイ人たちによる第一回尋問(9:13~17)
盲目で生まれた人が、イエスのわざによって見えるようになった(1~7)。この人は近所の人たち等に自分に起こった事実を説明した(11)。人々は自分たちの心の安定を破る、驚くべき現実を十分に受けとめきれない(8~10,12)。そこで宗教的権威であり、最高法院(サンヘドリン)の多数派であるパリサイ人たちのところに彼を連れて行く(13)。
最高法院による尋問と審理のポイントは、盲人の目を開けるのはメシアのわざ(イザヤ29:18、35:5、マタイ11:5)ゆえ、① 本当にこの盲人の目は開いたのか、② 癒しを行った者は神から遣わされたメシアか否か、この二点であった。
「どのようにして見えるようになったのか」(15)。彼は11節と同様、事実をありのまま述べる(15)。パリサイ人の多数派は、イエスが泥こねと治療行為という労働をして安息日律法を破っているので、神から来た者(メシア)であろうはずがないと頭から否定。しかし、「罪人である者にこのようなわざは行えるだろうか」と反論する少数派もいて、分裂が生じる(16)。
「あの人についてどう思うか」と問われ、この人は「イエスは預言者だ」と答える(17)。預言者は、神からのことばを語り、時には奇跡も行って、「神の現実に人々を触れさせる」存在。

Ⅱ 見えるようになった人の両親へのパリサイ人たちによる尋問(9:18~23)
パリサイ人たちは、この人が目が見えなかったのに見えるようになったことを信じない(18)。「信じたくないから」信じない。
彼らは両親を尋問する。① この人は本当の息子か、 ② 盲目で生まれたのか、 ③ どうして今は見えるのか(19)、この三点についてであった。
両親は①と②について「そうだ」と答え(20)、③については「知らない。息子に聞いてください」と言う(21)。彼は家に戻って、イエスが癒してくださったことを両親に話していたはず(7~8)。両親は真相を知っていたのだ。しかし、もしイエスが癒したと言えば、イエスがメシアだと認めることになり、会堂から追放されることになる。両親はユダヤ人たちを恐れた。

「あの人についてどう思うか」(17、マタイ16:15)。皆が神から問われている。パリサイ人は自尊心、自分の立派さにしがみつき、両親は恐れの殻に隠れ、弱さにしがみつき、両者ともイエスの前に一人の人として立とうとしない。ありのままの姿でイエスの前に出るとき、そこに恵みの世界が開かれてくる。
イエスに触れられ、イエスによって見えるようになったこの人は、自身の恵みの体験に支えられて、イエスを神の恵みの現実をもたらす預言者だと大胆に告白する。
イエスは私にとってどんな方か。神から、またイエスから問われているこの問いに誠実に答え続ける中で、イエスがより鮮明に見えるようになり、神を間近に仰ぐこととなる。