礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年5月10日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「神のわざが現れるために」 ヨハネの福音書 9:1~12

 
イエスは私たちに神のわざを行う。イエスを信頼し、イエスの導きに従おう。
イエスは霊的に見えない私たちを癒し生かす「世の光」(8:12)であられる。本日の奇跡はその「しるし」。

Ⅰ イエスのまなざし ~神のわざが現れるために~(9:1~3)
イエスは「生まれたときから目の見えない人」に目を留める(1)。ここから恵みのわざが始まる。
弟子たちは彼を好奇心と優越感のまなざしをもって見る。この人の病苦、悲惨な現状は過去にだれかが罪を犯したことによると考える(2)。この宗教的因果応報の考えは苦悩する当事者をますます苦しめるだけで、何の解決にもならない。聖書はこの世の悲惨(病、苦、死)は究極的には罪の結果世に来たことを教える(ローマ5:12,15)。しかし、悲惨の個人的宗教的原因を問うことは意味がない。
イエスは原因ではなく目的に、過去ではなく将来に目を向ける。「この人に神のわざ(複数形)が現れるため」(3)と。イエスの見方を私のものとしたい。世の悲惨、人の苦悩を前に、「この人に神のわざが現れますように」と祈る者でありたい。

Ⅱ イエスの働き ~神のわざを行うために~(9:4~7)
 「神のわざ」は、神が遣わした者であるイエスが行う。イエスは、ご自身が身体をもって人の間でメシアとして特別に活動するする3年間を「昼」になぞらえる。世の光として人に「光」を与える「神のわざ」を安息日(14)だからといって休むことはない(3~4、5:17~18)。
イエスがわざを行うのであるが、イエスは「わたしたちは」(4)と言って、私たちのこともイエスとともに神のわざをする仲間に加えてくださる。私たちは人の苦悩を座視する傍観者ではなく、イエスが行う神のわざに参与する同労者として召されている。
イエスはこれらのことば(4~5)を彼に聞かせた後、唾でこねた泥を彼の目に塗り、シロアムの池で洗うようにさせた。イエスはこれらの手段を用いて彼の信仰心を掻き立て、彼がイエスを信頼し、イエスのことば通りに行うようにさせた。イエスのことばと力が彼に働いた。イエスの恵みが彼に働いた。彼は見えるようになって、家に帰って行った(6~7)。

Ⅲ 見えるようになった人 ~神のわざの結果~(9:8~12) 
彼は見えるようになり、表情も立居振舞も変わった。近所の人や彼を見知る人は、別人ではないかといぶかったが、彼は「私がその人です」(9)と答える。このことばは、イエスの恵みによって新しくされた確かさ、健全な自己肯定感を示すもの。
信仰によってイエスに結ばれた者は、「すべてが新しくなった」(Ⅱコリント5:17)。力強い証し人の生が始まる(11)。日本における盲人キリスト者たちの奉仕はその実例である。
しかし、彼にはイエスをさらに「見知る」余地が残る(12)。イエスを信じる者は新しいのち(3:3~8)、霊的視力、霊的自由(8:32)が与えられた。しかしなお心の目がはっきり見え、キリストを仰ぐことができるように祈る必要がある(エペソ1:17~23)。

霊的盲目(黙示3:15~22)の私に、イエスは神のわざを現わされる。ここに光がある。