礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年5月3日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
    「アブラハム以前から『わたしはある』」   ヨハネの福音書 8:48~59

 
神は私たちをイエスご自身へ、永遠のいのちへと招いておられる(20:31)。

Ⅰ イエスのことばを守るなら、その人は決して死を見ることはない(8:48~51)
イエスは「悪霊につかれている」(48)のではない。悪霊は神を敬わないが、イエスは自分の栄誉を空にして(49~50)、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従」う(ピリピ2:8)。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられ」る(ピリピ2:9)。
イエスは神の永遠の「ことば」(1:1~4)。イエスの語ることばとイエスの存在は切り離せない。イエスのことばを守るとは、イエスのことばを聞いて、イエスを迎え、イエスを信頼し、イエスとともに歩むこと。神に従い、十字架で贖いを遂げ、死を滅ぼしてよみがえられたイエスがともに生きてくださるので、その人は死を見ない。神との断絶による空虚を見ず、人生の最期の死はあるが、死を越えて永遠のいのちに生きる(51、3:36、6:48)。

Ⅱ イエスにおいて神を見る(8:52~56)
ユダヤ人たちは実のところ神を知ってはいない(55)。イエスは父なる神を「見知っている」。父なる神のみことばを「見守っている」(55)。イエスは永遠から父なる神と差し向かいであられ(1:1b)、父なる神の心にあることばと一つになっておられる。ゆえに、私たちはイエスにおいて神を見る(1:18)。
アブラハムに現れたのも受肉前の御子であった(使徒7:2~3、創世18:2,20,22)。アブラハムは祝福の子孫が与えられるという約束を受けたこと(創世12章、15章、17章)、年老いて死んだも同然となったアブラハム夫妻についに約束の子が与えられたこと(創世18章)、その子イサクを祭壇にささげ、雄羊の身代わりがあって、イサクを死から取り戻したこと(同22章、へブル11:17~19)、これらの体験を通してやがて来られる「女の子孫」(創世3:15)であるメシアと、その死と復活による救いの成就、永遠のいのちをおぼろげながら見つめ、大いに喜んだ(56)。
昔も今も、私たちはイエス(御子)において神を見、神を知る。

Ⅲ イエスは昨日も今日も、とこしえに「わたしはある」(8:57~59) 
「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(58)。イエスは存在しなかった時がない永遠の神の御子。しかも「わたしはある」はモーセに啓示した贖い主、救い主としての神の御名(出エジプト3:14~15)。
イエスは歴史を貫いて常に贖い主、救い主であられ、十字架と復活による贖いの恵み(罪の赦しと永遠のいのち)は時を越えて信じる民に豊かに与えられる。

イエスにおいて驚くべき愛の神を知る者、永遠のいのちを味わい知る者は幸いである。