礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年4月26日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
                    「祈るとき」     マタイの福音書 6:5~8

 
神との交わりに心を向けたい。今こそ「祈るとき」。
祈りは神に心を向け、神に向かうこと。神の臨在の中で神と対話すること、神との親密な交わり。私たちに欠かせない。

Ⅰ 偽善者の祈りにならないように注意する(6:5)
パリサイ人など宗教者の中には、「会堂や大通りの角」に立ち、人から良く見えるように祈る者がいた。彼らは「偽善者」(原意「仮面をかぶって演技する役者」)、祈りが人に見せるための演技になっていた。
彼らは「あの人は熱心な人だ。敬虔な人だ」と人からの称賛を受け、自己満足感も満たされる。そのようにして、彼らはすでに自分の求める「報い」、ごほうびを受けてしまっているのである。彼らは人の目を意識して祈っている。祈りが人からの称賛、人からの評価、自己満足を得るための手段でしかなくなっている。私たちはどうだろうか?

Ⅱ 隠れたところにおられ、隠れた所で見ておられる、あなたの父に祈る(6:6)
祈りは神にのみ向けられる行為。大切なことは、ひとり神の前に出て、一対一で神と向き合うことができるよう、最善の努力をすることである。
神は隠れておられるが、私たちとともに、近くにおられる方(出エジプト3:14)。しかも、隠れていながら、いつも愛のまなざしを私たちに向け続けてくださる。「主はあなたがたに恵もうと待っておられ」る(イザヤ30:18)、「あなたの」親しい愛の父であられる。
私たちは父なる神に、信じ結ばれているイエスととともに、聖霊によって祈る。私たちは父なる神にひたすら心を向けて祈るが、三位一体の神の交わりの中で祈る。父・子・聖霊の愛の交わりの中で、喜びと親しみをもって、素直に何でも祈ることができる。
父に親しく、まっすぐ心を向けて祈るなら、父が祈りに応えてくださるだけでなく、思いもかけない報い、「ごほうび」まで与えてくださる。それは一言で言えば、神がご自身を私たちに与えてくださること。御子イエスの聖霊を圧倒的に注ぎ満たしてくださる(ルカ11:13)。神の圧倒的な臨在、神の御国(神の愛のご支配)を与えてくださること(ルカ12:32)。「すべての理解を越えた神の平安」(ピリピ4:7)、「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」(Ⅰペテロ1:8)。神の報い、神のごほうびはとてつもなく大きい。

Ⅲ 異邦人の祈りにならないように。神の子どもとして父を信頼して祈る(6:7~8)
異邦人の祈りは、自分の熱心さで神を動かそうとするもの。根底にあるのは神への信頼の欠如。
天の父は神の子である私たちの必要を知っておられ、一番いい形で与えてくださる、と信頼して祈ろう。
そしてそれ以上に、神賛美の祈り、みこころを求める祈り、とりなしの祈りをささげたい。祈りにおいて、父を信頼し、視野を広く持ち、大胆であらせていただこう。

父・子・聖霊の神が祈りを導き、喜び、応え、栄えを現してくださる。いまは「祈りのとき」。