礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年4月19日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
          「真理はあなたがたを自由にする」 ヨハネの福音書 8:31~47

 
きょうも私たちはイエスに注目する。イエスこそ、私たちが聴くべき神のことば(1:1,14)。イエスこそ、私たちを生かす真理そのもの(14:6)。イエスこそ自由なる方にして勝利者(16:33、黙示3:21)。イエスが私たちに真の自由と勝利を与えてくださる。私たちは生涯イエスが必要である。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちにはもっともっとイエスが必要である。
本日の個所は、イエスが「ご自分を信じたユダヤ人に」対して語りかけ(31)、彼らと対話するところである。イエスを信じた者にイエスへの殺意が潜んでいた(37)。自分事として、おののき聴きたい。

Ⅰ イエスを信じた者は、イエスの本当の弟子となるように招かれている(8:31~32)
イエスを信じ始めた者は、イエスのことばにとどまり続ける必要がある(31)。イエスは「ことば」なる方(1:1,14)。イエスのことばとイエスの存在は切り離せない。今日、聖霊において臨在するイエスは、みことばを語りながら同時に、ご自分の全存在を私たちに与えようとしておられる。私たちはイエスのことばを聴きながら、イエス自身を迎え入れ、イエスに信頼して自分をゆだね、イエスに従って行く。そのようにして、私たちはイエスの本当の弟子とされる(使徒6:1,7))。イエスの愛の中で成長し、イエスに似た者にされていく。
さらに「真理を知る」(32)。神のことばにあらわされた神のまごころ、恵みの現実、神の恵みの福音を知る。真理を体現するイエス(1:14,17、14:6)を知り、イエスの救いの恵みと力を知る。そして、真の自由を体験する。

Ⅱ イエスが罪の奴隷状態から解放し、本当の自由に生かしてくださる(8:33~36)
罪の本質は、神を引き下ろし、自分を神の位置につけること(創世3:5)。そして、その自己中心な願望を満たすものを偶像として心の中に据えること。その結果、偶像に縛られ、ますます神から離れ、罪の奴隷(34)となる。ユダヤ人には、アブラハムの子孫であり、律法の民だという宗教的伝統が偶像となり、それに縛られていた。それで神の前にへりくだり、悔い改めながら、神と人への真実の愛(ホセア6:6、マタイ9:13、12:7)を実践できなかった。彼らは高慢な罪の奴隷。
奴隷は自分を解放することはできない。罪の「奴隷」を解放できるのは、罪がなく罪から自由な「子」、神の御子イエスだけである(35~36)。イエスは自ら罪人の罪を負い、神のさばきを受けて死なれたその死によって、罪の鎖を打ち砕き、死の力を持つ悪魔を滅ぼし(致命傷を与え、創世3:15)、罪の力と奴隷的恐怖から罪人を解放される(へブル2:14~15)。

Ⅲ あなたがたの父は、アブラハムでも、神でもなく、悪魔である!(8:37~47)
イエスは、彼らが血統においてアブラハムの子孫であっても(37)、アブラハムに似た者、「アブラハムの子」(39)ではないと言う。アブラハムはひれ伏し迎えたのに(創世18:2)、彼らはイエスを殺そうとしていたから(37)。
また、彼らは神の子らとも言えない。神から来てここにいる御子を愛さないから(42)。
彼らは悪魔に似た者、悪魔の子である(44)、とイエスは責める。悪魔は最初から偽り者で人殺し。アダムとエバにうそを吹き込み、神に背かせ、人に死をもたらしたから(創世3章)。イエスの前に立つユダヤの宗教指導者たちは、瞬間的に一度はイエスを信じたが、実はイエスを殺そうとしており、真理を踏みにじろうとしている。これでは悪魔と同じではないか! 恐ろしいことである。

悪魔は神のすばらしさを疑わせ、神のことばを疑わせ、神のことばに聞き従わないようにさせる(創世3:1)。そして、神のまごころ(真理)を踏みにじり、抹殺していくようにさせる。これが悪魔のやり方である。悪魔に倣う者となってはならない。悪魔の子となってはならない。