礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2020年4月12日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(復活日礼拝】 「私は主を見ました」 ヨハネの福音書 20:1~18 十字架で死んで葬られたイエスは、死からよみがえり、ご自身を現された。イエスは今も生きておられ、私たちにもご自身を現し、ともに生きてくださる。この喜びは変わらない。 Ⅰ マグダラのマリアと二人の弟子たち(20:1~10) マリアはイエスの墓から入り口をふさぐ石が取りのけられているのを見て(1)、「だれかが墓から主を取って行きました。…」とペテロともう一人の弟子(福音書記者ヨハネ)に報告した(2)。彼女は途方に暮れ、悲しみを増した。 二人の弟子は墓に急ぎ(3~4)、状況を確認した(3~8a)。イエスの遺体はなく、亜麻布だけが遺体を包んだときのまま残されていた(7)。 ヨハネはこの状況証拠を見て、復活の主イエス自身のことはまだ見ていなかったが、超自然的なことが起こったこと、イエスがよみがえったことを信じた(8b)。旧約聖書がその復活を預言していたという深い理解はまだなかったのであるが(9)。 ヨハネの福音書はこの後のところで、復活の主イエスと弟子のトマスの再会のことを記している。イエスは彼に言う。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」(20:29)。復活の主イエスを目の当たり見ることはなくても、ちゃんと信じることができる。私たちの前にはそのような道がたしかに開かれている。 Ⅱ マグダラのマリアと二人の御使いたち(20:11~13) マリアは戻って来て、イエスの墓の外で泣き続けた(11a)。墓の中をのぞくと、二人の御使い(天使)が見えた(11b~12)。「なぜ泣くのか」と問われ、彼女は訴える。「だれかが私の主を取って行きました…」(13)。 彼女はかつてイエスによって「七つの悪霊を追い出してもらった」(ルカ8:2)。悪霊はあらゆる悪へと引き込む。マリアはイエスがいなければ悪霊に対してなすすべがない。イエスなしには生きることができない。だから、イエスの十字架のそばからも、墓のそばからも離れなかった。しかし、そのイエスがいない。泣くしかなかった。 イエス無しには生きていけない。私たちはどうか。イエスに助けてもらわないと困るけれど、でも、最近は信仰も成長してきたし、人間ができてきたから、イエスのお世話もだいぶ少なくて済んでいる。こんなふうに考えてはならない。イエス無しには、実は、私たちは悪の力の前になすすべがないのである。私たちにも常にイエスが必要である。イエスを慕い求めよう。 Ⅲ マグダラのマリアとイエスの二人で(19:14~18) 復活の主イエスは親しく彼女の名を呼んだ。「マリアム」(16,18節の原文はイエスの日常語、アラム語の「マリアム」)。彼女は復活のイエスだと気づく(16)。イエスは生きておられ、私たちに近づき、名を呼び、働きかけ、復活の主イエスへの信仰へと導いてくださる。 イエスは「すがりついてはいけません」と言う(17)。「すがりつく」は今までの慣れ親しんでいた接し方の象徴。これからは違う接し方となる。天におられる主イエスが、聖書のみことばと聖霊において私たちのもとに臨在し、ともに生き、語り、活かし、導いてくださる。 「わたしの兄弟たち」。復活のイエスに結ばれ、弟子たちはイエスとともに同じ父、同じ神を持つ一つ家族、愛の共同体となる(17)。マリアはこのメッセージを伝える使命を与えられ、出て行った(18)。復活の主イエスの愛を受け、イエスとともに喜びの生を生きる使命が与えられた。 私たちにもそのような使命に召されている。「主イエスとともに、全存在をもって、復活の喜びを生きる使命」に。 「私は主を見ました」。マリアはただ復活の主に会ったと言うのみではない、復活のイエスにまことの「主」を見たのである。イエスは罪と悪魔と死に勝利して復活した生ける方。愛をもって近づいて来てくださり、親しく名を呼んでくださる方。信仰へと導いてくださる方。弱く崩れていくような者たちを兄弟と呼んでくださる方。そして、愛をもって親しく名を呼びながら、父なる神のもとで、兄弟姉妹たちをご自身によって一つからだとし、愛の共同体を創造してくださる方。復活のイエスこそ、真に頼れる方。自分の人生を永遠に導いてくださる神であり、救い主であり、兄弟であり、友なる方。まさに、私のすべてのすべてである主なる方。マリアは復活のイエスが、そのようなすばらしい「主」であることを、あらためて発見したのである。大きな喜びであった。 私たちもこの主を見ることができる。 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(Ⅰペテロ1:8) 私たちは今は肉眼でイエスを見ることはできない。しかし、みことばと聖霊によって、私たちとともに臨在される復活の主、活ける主をたしかに見ることができるのである。主は生きたもう。我えらと共に生きたもう。ハレルヤ! |