礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2020年3月22日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
          「互いに愛し合う」     ヨハネの福音書 13:1~20

 
イエスは十二弟子の足を洗い、手ぬぐいでふいていかれた。これは私たちに何を教えるのか。

Ⅰ イエスの私たちへの極限までの愛(13:1~5)
過越の祭りは、イスラエルの先祖たちがエジプトの奴隷状態から子羊の犠牲の血を通して贖い出された過去の出来事を記念するもの(出エジプト12~13章)。とともに、イエスの十字架の犠牲による、私たちの罪の(奴隷状態から解放する)贖いのわざの完成を予告するもの。
その過ぎ越しの祭りの折、イエスは十字架の死と葬り、復活と昇天の時が間近であることを悟り(1,2)、愛してきたご自分の弟子たちを、地上の働きが終わる「最後」の時まで、さらに永遠に至るまで、また無限の「極みまで」(1、欄外別訳)愛し抜こうとされた。イエスは自分が神の御子であり、世の救い主メシアであること、すべてが自分にかかっていることを深く受けとめ、主体的に自分を与え尽くす愛に徹した(3、Ⅰヨハネ4:10)。
身を低くして弟子たちの足を洗うイエスの洗足の行為は、彼らの贖いのため十字架の死に向かう極限までの愛の証しであった。ピリピ2:6~8。イエスの十字架での贖いの死は私たちの罪の罰を決定的にぬぐい去る。

Ⅱ イエスによる日々の罪の赦しの確認ときよめが私たちに必要なこと(13:6~11)
イエスはペテロに言う。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」(10)。洗いは救いを象徴する。当時、友人宅の食事に行くとき、まず自分の家で全身水浴して出かける。途中で足が汚れるので、相手の家についたら奴隷が足を洗ってくれた。しかし、水浴はもう一度することはない。
最初の悔い改め(方向転換)とイエスへの信仰によって、人は一回的決定的に義と認められ、罪(の罰)の赦免を受け(義認)、霊的な新生が明らかになる(3:3,5~8)。新生と義認の恵みは生涯一度の洗礼によって証印される。しかし、なお罪が厳然としてあり、日ごとに思いとことばと行いで罪を犯し、罪に汚れていく。それゆえ、イエスは愛をもって日々私たちの足を洗ってくださる。
汚れた足をイエスの前に日々差し出そう。イエスの赦しときよめを受けて、日々新たに歩み続けよう。Ⅰヨハネ1:9。聖餐に定期的にあずかることが象徴する、日々の罪の赦しときよめが生涯必要である。

Ⅲ イエスが愛されたように、私たちが互いに愛し合うこと(13:12~20)
弟子たちはイエスに信仰告白した(6:68~69、マタイ16:16)。彼らは義認と新生の恵みにあずかり、「全身がきよい」。イスカリオテのユダだけは例外(10b~11、6:70~71)。しかし、イエスはユダの足も洗った。
「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(14)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)。私たちはイエスの愛の中で、互いに、敵にさえも、自発的に喜んで赦し、愛し仕えながら、私たちを遣わされた主イエスと御父が罪を赦し、愛し仕えてくださる神であることを証しする。

イエスは私たちが足を洗う弟子となるために、今日も愛をもって私たちの足を洗われる。