礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2020年3月15日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】 「世の光なるキリスト」 ヨハネの福音書 8:12~20 光は明るく、暖かく、清い。光に照らされるなら明るく、暖かく、清くなる。 義の太陽(マラキ4:2)にして、闇の世の光なるキリストのもとに身を置きたい。 7:53~8:11の挿入により中断された話は、再び仮庵の祭り(9~10月)のエルサレム神殿に戻る。祭りの最終第8日目。 Ⅰ イエスこそ世の光(8:12,20) 仮庵の祭りは、イスラエルの父祖たちが出エジプトした後、約束の地カナンを目指した荒野生活を記憶するもの。イエスが再び人々に語られた(12)のは、「神殿の献金箱の近く」(20)、すなわち「婦人の庭」であった。仮庵の祭りの初日の夕方、婦人の庭には大きな燭台が4つ置かれ、火が灯され、光が闇の中に煌々と照り輝いた。出エジプト直後から荒野の旅全行程に渡り、主は、昼は雲の柱の中に、夜は柱の中に臨在し、民の前を進まれた(出エジプト13:21~22)ことを記憶するため。 イエスは宣言する。「わたしは世の光です」。ご自分が主なる神であり、救いをもたらすメシアであると宣言されたのである。荒野の火の柱は神の臨在と保護と導きとを顕示するものであった。イエスは「臨在の輝き」。人となられた神イエスにおいて、神の臨在は現わされた。また、イエスは義の太陽、照らす火の柱として闇を照らす。イエスは「真理の光」。霊的に見えない罪人である私たちに、神、義、罪、救い、神の国と永遠への道筋を知らせ、見せてくれる。 Ⅱ 世の光イエスに従う者は、闇の中を歩まず、いのちの光を持つ(8:12) イエスは世の光であるご自身に従うよう招く。「従う」とは「同じ道を行く」という意味。イエスを信頼し、イエスとともに歩む者は、闇の中を歩まない。いのちの光を持つ。いのちそのものである光、また、いのちに至らせる光である御子の聖霊を内に持ち、救いの光に生かされる。 霊的暗闇の中ではなく、みことばと聖霊によって教えられながら、真理の光の中を歩む。 罪と死の支配という闇に閉じ込められず、聖霊によって救いの恵みを味わう。罪の罰から解放され続け(義認、赦し)、罪に抵抗し、聖なる歩みへと向かうことにより、罪の力から解放され続け(聖化、きよめ)、永遠のいのちへと至る。 また内側に聖霊による特質、いのちの光(信仰、希望、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、Ⅰコリント13:13。ガラテヤ5:22,23)が輝き、外側にもあふれ流れていく。 Ⅲ イエスとの交わりの中で父なる神を知る(8:13~19) イエスは神から出、神に帰る者(14、イザヤ55:11)。すなわち、人となった神のことばゆえ、それだけで信じるに値する。他の証人はいらない(13~14)。イエス(御子)と御父は別人格でありながら一体(10:30)。イエスのことばは御父のことばなのである。イスとともに御父が証言する(16,18)。二人以上の証言が必要という律法にかなっているとも言える(17)。 彼らは「あなたの父はどこにいるのですか」と問う(19)。イエスは「あなたたちにはわたし父(御父、神)のことはわからない」と答える(19)。イエスを通してしか、父なる神のことはわからない(ヨハネ1:18)。御父と御子イエスは親密なる愛の交わりの中で一体。御子は人となられた神で、神の臨在そのもの。このイエスと交わることなしに、父なる神を知ることはない。 技術、学術、制度は進歩発展しているかもしれない。しかし、世は依然として霊的には暗闇である。そして、人も罪の中にあって霊的には暗闇である。そのことを自覚して、世の光であるイエスの前に出ることが肝要である。世の光なるイエスの前に出ることから光の歩み、いのちの道が始まる。何度でも何度でも、世の光なるキリストのもとに来たれ。日々、そして、永遠にイエスは私たちの光であられる。 |