礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年3月8日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
     「わたしもさばきを下さない」 ヨハネの福音書 7:53~8:11

 
イエスの十字架の死は罪人に罪の赦しを、イエスの復活は罪赦された者に再起をもたらす。
本日の7:53~8:11は実際にあった出来事であり、1世紀から口伝されていたが、ヨハネ福音書には後から加えられた部分。だからと言って霊感されてないとか、価値無しとはしない。ここは「全福音書の縮写」(内村鑑三)とも呼ぶべきもので、福音の恵みにあふれている。

Ⅰ 律法学者・パリサイ人の暗黒と冷酷さ(7:53~8:6a)
朝のエルサレムの宮(神殿)(2)。姦淫の現場で捕らえられた女がイエスのもとに連れて来られた(3)。姦淫とは、どちらかが既婚者または婚約中の者が別の異性と性的関係を持つことで、ユダヤ社会では偶像礼拝、殺人と並ぶ大罪であった(マタイ19:4~6)。
律法学者とパリサイ人は、モーセの律法によるとこのような女は石打刑に処せられるべきとある(レビ20:10、申命22:22~27)が、「あなたは何と言うか」(5)とイエスに迫る。彼らは律法の正義を求めているように見せて、実は律法を使ってイエスを陥れようとした(6)。その性根の何たる暗黒! イエスが「石打にするな」と言えば、モーセ律法を破る者と咎められ、「石打にせよ」と言えば、死刑執行権を有するローマへの反逆者と見なされる。
彼らは姦淫の男性は捕らえず、イエスを罠にかけるための道具(餌)とされた弱い女性だけを引っ張って来た。彼らの何たる冷酷さ!

Ⅱ イエスの慈愛と権威(8:6b ~9)
イエスは「腰を下ろし」たまま(2)、身をかがめ地面を見る(6b)。人々の糾弾と好奇の視線に射抜かれ、恐怖と絶望の中にあった女からあえて視線をそらすイエスの慈愛。
律法学者・パリサイ人から執拗に問われ、イエスは身を起こし、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言う(7)。「罪のない者」とは「罪の欲望のない者」ということでもある。心のレベルまで掘り下げれば、姦淫の本性である情欲の罪は身に覚えがあるもの(マタイ5:27~28)。
イエスが神としての権威もって語った一言に人々は良心を揺さぶられ、内なる罪と向き合わざるをえなくさせられた。情欲の罪、姦淫の罪、さらに、自己義認の罪、人を物としか見ない罪、律法を人を殺すために悪用する罪と、様々な罪を思い起させられ、一人一人立ち去り、女とイエスだけが残された。女は留まり、罪とイエスにしかと向き合った。

Ⅲ イエスによる罪の赦しと新しい歩みへの派遣(8:10~11)
イエスは罪なき方。この女に石を投げることができる唯一の方。しかし、「わたしもあなたにさばきを下さない」(11)。なぜか? イエスはさばくためでなく、救うために世に来られた方だから(3:17、8:15)。
イエスは姦淫の罪を是認しない。罪を良しとはしない。イエスは罪を憎む。しかし、罪人を愛する。それゆえ、イエス自身が罪人の罪を背負い、十字架で身代わりに神のさばきを受け、その贖いの死のゆえに、イエスのもとにある私たちの罪を赦してくださる(Ⅱコリント5:21、エペソ1:7)。
そしてさらに、罪赦された者を、罪と戦い、罪に打ち勝つ新しい歩みへと派遣される(11)。罪に勝利し復活した主イエスが同伴してくださる旅へ。

身をかがめるイエスは、弟子たちの足を洗うイエス(13:1~)に通じる。イエスの弟子たちの足を洗う行為は、イエスが十字架のあがないに基づいて、イエスを信じる者の罪を赦し続けることを象徴するものである。この罪を赦し続けるイエスのもとに留まろう。イエスの赦しを日々身に受け、そして、イエスとともに聖潔の道へと踏み出して行こう。