礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年3月1日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
        「まず本人から話を聞いて」 ヨハネの福音書 7:45~52

 
イエスは永遠の神のことば(1:1)。しかも、人となられた神のことば(1:14)。神(御父)と一体で、御父の心を語り(1:18)、御父のみこころを実現し(イザヤ55:11)、御父の愛といのちの中に私たちを招き入れる。イエスは今、聖霊において、聖書のみことばを通して私たちに語りかける。イエスにききたい。耳で「聞き」、口で「訊き」(祈りの中で問い)、心で「聴き」たい。全人格をもってききたい。
仮庵の祭りにイエスはエルサレムに上り、人々を教え(7:14)、対話し、大声で招いた(7:38)。本日の個所にも、イエスのことばをきいた者たちの幾種類かの反応(応答)が記されている。

Ⅰ イエスのことばに感銘を受け驚いた下役たち(7:45~46)
群衆のうちにイエスをキリストではないかと信じる者が多くなったので、パリサイ人たちは祭司長たちと結託し、イエスを捕らえるため下役たち(レビ人の神殿警備員)を遣わした(32)。下役たちはイエスを捕らえて来なかった(45)。御父が定めていた「イエスの(十字架の)時がまだ来ていなかったからである」(30)。
彼らは謝るでもなく、弁解するでもない。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした」(46)、「だから捕らえることはおろか、手をかけることさえどうしてできたでしょう」と反論する。群衆と同様、彼らもイエスが語るのをじかに聞き、その内容と語り方の両方に少なからず心動かされた。イエスは深く重要な真理を単純に、心に響くことばで、厳粛に、感動的に、愛情をこめて語った。警告は単刀直入、招きは愛と優しさに満ちていた。下役たちは素朴に素直にイエスのことばを聞いたのである。
私たちも心を開いてイエスのことばに耳を傾けるなら、そのイエスのことばが私たちを主イエスご自身のもとへと導いてくれる。

Ⅱ イエスのことばに心閉ざし、高慢と偏見に捕らわれているパリサイ人たち(7:47~49)
パリサイ人は律法(旧約聖書のモーセ律法 + 付加された数々の決まり事)を厳格に守り、そのことによって神に受け入れられようとした。律法は本来、神の愛のみこころを顕わすもの。神の聖なるみこころを示し、そこに届かぬ人の罪を思い知らせる。そして、救い主の必要性を痛感させ、救い主への信仰、罪の赦しと永遠のいのちの希望、神への愛へと人を活かすもの。しかし、パリサイ人は律法の本質を完全に見失っていた。彼らは律法の本質である愛に生き、語り、自分たちに挑戦してくるイエスを邪魔者とし、抹殺しようとしていた(5:18)。自分たちこそ律法を熟知し、律法に忠実に生きているという高満、イエスは悪の権化という偏見、それゆえ、彼らはイエスに心閉ざし、イエスのことばを耳に入れても憎悪を掻き立てるばかりだった。
パリサイ人たちは下役たちを罵倒する。「お前たちはだまされている」(47)、「ユダヤ宗教議会議員やパリサイ人(良識ある人)はイエスを信じてはいない」(48)、「律法(伝統、決まり事、常識)を知らない呪われた者め」(49)と。
今日も同じような非難があるかもしれない。「あなたは洗脳されているのだ」とか、「日本の99パーセントの人はキリストなんか信じていないではないか。常識ある人はこんな宗教は信じないものだ」とか、「日本の宗教や伝統を知らない者は呪われている」と。しかし、私たちは高慢と偏見から来る世のことばではなく、イエスの愛のことば、招きのことばに聞きたい。そして、聴きたい、心に深く受けとめたい。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(37~38)。

Ⅲ イエスとの友情に生き始め、イエスを弁護するニコデモ(7:50~52) 
「彼らのうちの一人」(50)、パリサイ人で議員(3:1)のニコデモがイエスを弁護する。偏見、先入見をわきに置き、神を畏れつつ、本人のことばきちんと聞いて、その人がしていることを正確に知って、さばきを下す。これが律法の教えではないか、と(申命1:16~17)。同僚たちからは非難轟轟(ごうごう)であった(52)。
古代の親友の務めは二つ、その第一は友の弁護をすること、第二は友の死に際し葬りをすることであった。ニコデモはおっかなびっくりだが、彼なりに精一杯この二つのことをした(7:50~52、19:39~40)。ニコデモはイエスの友情に生き始めていたのである。私たちはどうだろうか。
彼は個人的にイエスと会い、へりくだってその教えを受けた(3:1~15)。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3:3)、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(3:5)とイエスに教えられ、イエスとの交わりの中で、聖霊の恵みに目が開かれていた。聖霊は主イエスが十字架のあがないを終え、復活し、天の王座に着き、天から世に注がれ、イエスの救いの恵みを大々的に豊かにもたらすものとなったが(7:39)、それ以前に聖霊が存在しなかったわけでもなく、働いていなかったのでもない。ニコデモの心にはすでに聖霊による新生の恵みが働き始めていたのである。ニコデモの態度は、おっかなびっくりで、煮え切らないと見えるかもしれない。しかし、聖霊の働き方は千差万別である。時に聖霊はゆっくりと、しかし、確実に働き続ける。
自分が体験した聖霊のみわざ(救いの体験)を他のキリスト者と比較して、優越感を持ったり、落ち込んだりすることは愚かなことである。聖霊の働きはすべてのキリスト者に、それぞれ独自に働く。大切なことは御父の愛に信頼し、贖い(救いに必要なすべての御業)を成し遂げたイエスを信頼し、聖霊の働きに信頼することである。

「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる」(箴言17:17)。
イエスは私たちを罪から救うため、十字架につき、ご自分の命をささげてくさった。そして、復活して永遠のいのちの道を開き、天に上り、御父の右の座に着いて、私たちのためにとりなしておられる。そして、ご自身が遣わした聖霊において私たちとともにあり、私たちと苦楽を共にしてくださる。イエスこそ私たちの真の友、真の兄弟であられる。
それゆえ、この真の友、真の兄弟であられるイエスのみことばをいつもききたい。聖書を通して、イエスのみことばを、心開いて、耳で聞き、口で訊き、心で聴いて日々歩ませていただこう。イエスの愛の語りかけにいつも心を開き、イエスの救いの恵みに活かされながら、私たちもイエスの真の友として、終わりまでイエスとともに歩ませていただきたい。