礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年2月23日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「わたしのもとに来て飲みなさい」   ヨハネの福音書 7:32~36


仮庵の祭り(9月~10月)はイスラエルの先祖たちの出エジプト後の荒野生活を記憶する時。祭りの7日間毎日、ギホンの泉(シロアムの池)の水を汲んで神殿の祭壇横の水盤に注ぐという儀式が行われた。「祭りの終わりの大いなる日」(最終日の8日目)にイエスは人々を招く。

Ⅰ イエスからの招き ~「わたしのもとに来て飲みなさい」~(7:37)
イエスは私たちの霊(「心の奥底」)の渇きをいやし、満たす方。霊は人間が神と交わる部分。人は「神のかたちに」創造された(創世記1:27)。神との交わりに生きるように創造されている。人は神との交わりの中で霊が潤され、神との交わりが絶たれる時、霊が渇く(19:28)。
私たちは罪あるゆえに霊が渇く。罪とは神に逆らい、背を向け、神のお心を痛めること。罪は人と神との間に隔てを作り、断絶を生み、人の霊から潤いを取り去り、言い知れぬ渇きをもたらす。すべての人は罪人(ローマ3:23)ゆえ、すべての人は霊が渇いている。
「だれでも渇いているなら」というイエスの呼びかけは、すべての罪人、全人類に向けられた呼びかけである。イエスにとって、その人がどんな状態であろうと問題ではない。立ち上がり、叫び、招いておられるイエスを信頼し、イエスに身を委ね、イエスを迎え入るなら、霊の渇きが満たされる。

Ⅱ イエスによる約束 ~心の奥底から生ける水の川(御霊の働き)が流れ出す~(7:38~39)
イエスを飲む、イエスを心と人生と生活に迎え入れるなら、さらに素晴らしいことが起こる。その人の心の奥底に泉が開かれ、旧約聖書の預言の通り(ゼカリヤ14:8、エゼキエル47:1~12、イザヤ12:3、44:3、55:1、58:11)、生ける水の「川」(複数形)が流れ出す。御霊(聖霊)、神の霊、イエスの霊がその人の内に住み、生き生きと働くようになる。イエスは聖霊を無限に注ぎ与えられた(3:34)。そして、そのイエスを通して、イエスにつながる者の心の奥底にも聖霊が、聖霊の働きによる恵みが生ける水の川となって湧き出す。
十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げ、死に勝利して復活し、いのちの道を開き、天でとりなし、支配しておられるいのちの主、活ける主イエスの救いの恵みは、今や聖霊を通して地くだり、信じる者の心の中の奥底からいくつもの「川」となって湧き出し流れてくる。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22~23)、神の臨在の喜び、罪の赦しの実感と感謝、神を礼拝する心と賛美と祈り、神への愛と隣人への愛、罪に打ち勝ちきよきわざに進む力、福音の恵みを人と分かち合う喜び、社会の悪に抗って人に仕える意志…が湧き出て来る。イエスの救いの恵みは、聖霊において「生ける水の川」のごとく力強く湧き出し、私の霊を満たし、教会を潤し、外にも流れ出で周囲の人々、世界を潤し満たす。

Ⅲ イエスへの反応 ~イエスのことで人々の間に分裂が生じる~(7:40~44)
イエスの招きと約束のことばを聞いた人々の反応は様々であった。イエスをモーセのような「あの預言者」(申命18:15,18)だと言う人があり(40)、「キリスト(メシア、救い主)」(ただし、多分に政治的解放者としての救世主)だという人があり(41)、また、北のガリラヤ出身のイエスはキリストではありえないという人(彼らはイエスがミカ5:2にある預言の通りダビデ王の出身地ベツレヘムの生まれであるとはよもや思わなかった)があり(41~42)、手をかけて捕らえ殺したいと思う者もいた(44)。
イエスをめぐって人々は論争し、分裂した。しかし、イエスについて頭で考え、ことばで論じるだけでは何も恩恵をもたらさないであろう。ウィリアム・バークレーのことばを心に留めようではないか。「イエス・キリストは論争の種とすべき方ではない。イエスは、知り、愛し、喜んで体験すべき方なのである。」(ウィリアム・バークレー『ヨハネ福音書 上』)

イエスの招きは、原文のニュアンスを生かせば、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来(続け)て、飲み(続け)なさい」である。日々イエスは招く。日々イエスを迎え入れ、イエスとつながっていこう。イエスのあがない取られた救いの賜物一つ一つを、聖霊の豊かな流れの中で、日々に、そして、永遠に味わわせていただきたいのである。