礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年2月16日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
         「城壁を建て直す」   ネヘミヤ記 4:1~23、6:15~16

 
イスラエル(ユダヤ)人の南王国ユダは、主なる神への不服従のゆえに、バビロンによって滅ぼされ、エルサレムの神殿や城壁も破壊された(B.C.586年)。ユダの民はバビロンに捕囚された。しかし、バビロンがペルシアによって滅ぼされると、捕囚されていたユダの民はエルサレムに帰還する(538年)。
まず、ゼルバベルのもとで神殿が修復される(536~515年)。次に、エズラのもとで律法(による生き方)が修復される(458年~)。そして、ネヘミヤのもとでエルサレムの町の城壁が修復される(445年)。ネヘミヤたちユダの民は数々の困難に遭いながらも、主にあってそれを乗り越え、城壁は52日という異例の速さで完成する。

Ⅰ 城壁再建にあたっての数々の困難 ~外敵からの妨害~ (4:1~23、6:1~14)
サマリア州の総督サンバラテとその仲間たちからの妨害が続いた。
第一弾として、彼らは城壁を築き始めたユダヤ人たちを嘲った(4:1~3)。ネヘミヤは神に祈った(4~5)。工事は進められ、「城壁は半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである」(6)。
第二弾として、サンバラテらはエルサレムに攻め入って、ユダヤ人たちを攻撃しようと企てた(4:7~8,11)。民は神に祈り、知恵をいただき、敵に備えて見張りを置いた(9)。ネヘミヤの若い部下たちのうち半分は工事をし、もう半部は武装して民を守るようにした(16)。緊急事態を知らせる角笛が鳴ったらネヘミヤのもとに参集するようにした(19)。民は武器を携帯しながら工事を進めた(18)。
「荷を担ぐ者は力弱り、瓦礫は山をなしている。
城壁を築きなおすことなど、私たちにはできない」(10)。
 これは労働歌であったと推察される。ため息のようなことばを皆で口にし、歌いながら、逆に気力を奮い立たせて工事を進めたのであろう。その歌は「私たちにはできにはできない」が「神にはできる」(マルコ10:27)との信頼をも秘めていたのである。
第三弾として、城壁が九割がた完成した頃になると(6:19)、サンバラテらはネヘミヤを呼び出して暗殺しようとした。ネヘミヤは五度にわたる誘いを「私は大工事をしているから、下って行けない」と断る(2~9)。さらに、サンバラテらに買収されたシェマヤの陰謀も見抜き、彼の誘いを断る(10~14)。この間もネヘミヤは神に祈り(9)、たゆまず工事を進め、陰謀を見抜く洞察力も与えられた。

Ⅱ 城壁再建にあたっての数々の困難 ~内側の問題~ (5:1~19)
ユダヤ人の中からも不満の声があがった(5:1)。食糧難から来る借金、民の息子や娘たちを奴隷として売らなければならない状況、畑が他人の所有となってしまっていることをネヘミヤは聞かされた(2~5)。同じユダヤ人でも、裕福な者は貧しい者に利息を付けて金を貸していた。城壁再建に際して一致すべき時に、民は富者と貧者に二分されてしまっていた。
ネヘミヤは憤りを覚え、代表者を集めて叱責し、神を恐れ、愛をもって共に生きていこうと説いた(6~11)。そして、富者たちに利子を免除することを約束させた(11~13)。ネヘミヤ自身も自分が貸していた分を帳消しにし、総督の手当ても辞退し、率先して模範を示した(10,14~18)。ネヘミヤはこのことも祈りながら進めた(19)。

Ⅲ 神の事業を、祈りつつ、誠実に取り組む
ネヘミヤは神に心動かされ、城壁再建を志した(2:5)。神が彼をそのために恵みをもって召してくださった。彼は民とともに「この良い仕事」、神の事業に取り組んだ(2:18)。彼は敵から侮り蔑まれても、「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる」(2:20)という信仰に立った。
困難は必ずある。しかし、「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ」(4:20)。
彼(と民)は神に信頼し、どんな小さな問題も神に祈った。そして、誠実に取り組み、一所懸命働いた。城壁は完成し、敵さえも脱帽した(6:16)。
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月(8~9月、ブドウの収穫期)の二十五日に完成した。私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみなおそれ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである」(6:15~16)。

人生のあらゆる課題は神の事業である。学ぶこと、交わること、働くこと、休むこと、礼拝すること、教会の活動、助けを必要とする人に奉仕すること、家庭を作ること、子育てと家族の介護、老いること、病むこと、人生をしめくくる最期を迎えること、そして主のみもとに召されること、これら個人、家庭、仕事、教会などの人生における日々の営み、生と死のすべては神の事業なのであり、私たちはその事業に召された神のしもべ(いや、神の息子娘たち)である。そして、それらの事業は、神による罪人の救い、世界の回復と神の御国の完成という最大の神の事業の中で大切な意味を持っている。
このような神の召しを覚えつつ、神に信頼して祈り続けながら、誠実に懸命に与えられた一つ一つのことに丁寧に取り組んでいきたい。そうして、神の御業を見させていただこう。主の栄光を仰がせていただこう。