礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年2月9日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
「わたしを遣わされた方のもとに」   ヨハネの福音書 7:32~36


信仰によってイエスに結ばれる者は幸い。イエスこそ私たちが御父に行く道である(14:6)。

Ⅰ ユダヤの宗教指導者たちはイエスを殺すためにイエスを捕らえようとする(7:32)
 ユダヤの宗教指導者たちは、イエスが彼らの権威、既得権益、プライドに挑戦していると感じていた(2:13~22、5:16~18)。そして人々が「イエスはキリストかもしれない」と言うのを小耳にはさんだ(32)。それで水と油の「祭司長たちとパリサイ人たち」(32、使徒23:8)はイエスを殺そうとすることでは一致し(5:18、7:19,25)、イエスを捕らえるために「下役たち」(レビ人の神殿警備員)をイエスのもとに遣わした。彼らは同じ穴の狢(むじな)である。

Ⅱ イエスは「遠からぬうちに、わたしは御父のもとに行く」と言う(7:33~34)
イエスは下役たち、そして彼らを遣わした指導者たちに言う。「もう少しの間」あなたがたはわたしを追い回す。しかし、半年後、わたしを遣わされた方のもとに行く。逮捕され、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者の中から復活し(マタイ16:21、17:22~23、20:18~19、ヨハネ2:19~22)、天の御父のもとに行く(33)と。
イエスは神の御子、神の「ことば」なる方として永遠から神(御父)「とともに」(原語は「に向かって」と訳せる語)おられ(1:1)、やがて時至って、人(肉)となり、私たちのところに宿られた(1:14)。イエスは神のみもとから出て世に来られ、十字架で罪の贖いを成し遂げ、死に勝利し復活して永遠のいのちへの道を開き、父なる神のみもとに帰る。こうして、イエスは神と人とをつなぐ道となられる(14:6)。
死んだイエスが生き返ったであろうことは、指導者たちも番兵から聞いて認知していた(マタイ28:11~13)。だから、弟子たちが遺体を盗んだととりあえずデマを流す。とともに、彼らはイエスを再び捜す。しかし、見つけられない。「わたしがいるところに来ることはできません」(34)。イエスは父なる神のみもと、天(神の領域)に移されるからである。

Ⅲ 捜しても見つけられない。イエスがいるところに来ることはできないとは?(7:35~36)
イエスのことばを聞いて、ユダヤ人たち(指導たち)は、イエスがユダヤ以外の場所に住む、離散のユダヤ人(ディアスポラ)のところに行き、ギリシャ人(異邦人)を教えようとしているのか。彼らの手を逃れて、手の届かないところに行くのかと言った(35)。この彼らの誤解から出たことばは、皮肉にも後に別の形で真実になる。やがてイエスは聖霊において世に来られ(使徒2章)、使徒と教会を通して異邦人に福音を伝え、異邦人を御国の民として召していく。
イエスを捜しても見つけられない。イエスがいるところに来ることはできないとはどういう意味か(36)。イエスを殺そうとする者(謀殺、抹殺、黙殺、無視する者)はイエスを見つけることができないということ。イエスがいるところ、御父との永遠の愛の交わりに至ることはできないのである。

イエスとともに歩む者は、イエスがいるところにおらせていただける(12:26)。だから闇に捕らわれないようにしよう。光なるイエスに目を開いて、「光があるうちに、光を信じなさい」(12:36)。