礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年1月19日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「神の栄誉を求めて」  ヨハネの福音書 7:14~24

イエスは神殿で教え(14)、殺意さえ抱く罪人の中に深く入り込まれた。ここに希望がある。

驚くべきイエスの教え(7:14~18)
イエスの聖書の知識の豊かさ、聖書理解と洞察の深さ、教える能力、教えるときの態度、すべてにおいて驚くべきものがあった(15、マタイ7:29)。人々は「あたかも神ご自身が、いま、ここで、私に語りかけている」と感じた。イエスの教えは父なる神からのものである(16)。イエスご自身は神の御子、御父とは別人格でありながら、永遠から御父とともにおられ、御父と愛の交わりの中で一つであられる方(1:1)。イエスは神の思いを、ことばと存在をもって十二分に現す方である。
イエスは自分の栄誉を求めることはしない(18)。自らに栄誉を帰することなく、神の御前に完全にへりくだり、ただ神の栄光を求めるイエスを通し、その純粋なる心と口を通して、神の教えとみこころは少しも屈折することなくまっすぐに語り出される。「みこころ」(17)とは、神が望んでおられること、そして、その神の望みに基づいて神がなそうとしていること(神の計画)。イエスは神の栄誉のみを求めて生きたが、別言すれば、神のみこころを行うことだけを求めて生きたのである。
私たちが聖書に示されている神のみこころ(申命29:29)を行いたいと願い、いま自分が理解している範囲で、神のおこころを受けとめ、神に信頼し、神がお望みなることを実践しようとするなら、その人はイエスと同じ方向を向くことになり、イエスと歩調が合う。イエスと心が深くつながる。そして、イエスの教えが神からのものと実感し、みことばをさらに良く理解するようになる。

驚くべきイエスのみわざ(7:19~24)
イエスが行った「一つのわざ」(21)とは、ベテスダの池で38年も病気であった男を、労働してはいけない安息日にいやし、立ち上がらせたこと(5:1~9)。そして、父なる神は安息日も休まず働かれるので、自分も働くのだと宣言したことである(5:17)。それでユダヤ宗教指導者たちは、イエスは律法を破る者、神を冒涜する者と判断し、イエスを殺そうとするようになった(5:18)。
モーセの律法では、イスラエルの民の男児は生後8日目に割礼を受けなければならなかった(レビ12:3)。割礼を施す生後8日目が安息日であっても、割礼は行われた。割礼は神がご自身の民を祝福するという契約の証印であり(創世17:1~14)、約束のメシアによって救いといのちが与えられることを表すしるしである。メシアの救いといのちを与えることを表す、割礼という部分的外科手術が安息日に行われても律法違反とされないのならば、まして、約束のメシア(キリスト、救い主)ご自身であるイエスが、「人の全身を健やかにし」て(23)、いのちを与えることが、どうして律法違反とされるのだろうか。
「うわべでさばかないで、正しいさばきを行いなさい」(24)。律法を(みことばを)字面だけ読んで「こうだ!」と判断するのではなく、律法(みことば)の奥にある神の愛のみこころを読み取らなければならない。イエスの教えについても、イエスご自身についても、同様である。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(Ⅰテモテ1:15)。律法も安息日もイエスは無視しない。しかし、罪人を救うこと、すなわち、信じる者に罪の赦しを与え、神の子とし、永遠のいのちに生かすこと、そして、人を神の愛に生かすこと、この神のみこころを成し遂げることがイエスの第一の目的であり、喜びであった。イエスは聖霊において、今ここに来ておられる。何のためか? 私たちがイエスの救いにあずかるためである。イエスを信頼し、イエスの救いをいただき、イエスの救いにますます生きるため、そして、イエスにあって神の愛に生かされ、イエスとともに神に従い、神に栄光を帰するためである。
このイエスとともに、私たちも神の栄誉を求めて生きていきたい。