礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年1月12日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
1           「主イエスの時、私たちの時」  ヨハネの福音書 6:60~71

イエスは時をいかにとらえたか。私たちは時の中でいかにイエスとともに生きていくのか。

「自分を世に示しなさい」(7:2~5)
時は秋。「仮庵の祭り」が近づいていた。イエスの弟たち(マルコ6:3)は兄イエスに、仮庵の祭りにエルサレムに上り、栄光を現わすように進言する(3~4)。彼らは兄のために良いと思われる計画を立て、スケジュールを立ててあげた。しかし、彼らの心の底には、兄イエスの天下取りに乗じて自分たちの利益や地位を得ようという下心がなかったであろうか。彼らはイエスの奇跡を信じていたが、イエスについての核心を見失っていた(5)。私たちはどうか。

「わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです」(7:6~8)
イエスは公然と指導者たちの罪を指摘したので憎まれた。イエスは無限の愛に富んでおられるお方であるが、同時に、みことば(聖書)を通して私たちの罪を鋭く指摘されるお方でもある。私たちはイエスによる罪の指摘を真剣に受けとめ、悔い改め続けて行く道をとりたい。自分の罪を認め、神の御前に罪を告白しながら「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈り、私たちの罪の身代わりに十字架で死んで罪の贖い(償い)を成し遂げ、よみがえられた救い主イエスに身を任せ、罪の赦しと神に従う新しい力を与えられ、前に進むことである。詩篇51:17。

「わたしの時はまだ来ていません」(7:6, 8~10)
「わたしの時(わたしのために定められた時)はまだ来ていません」(6)、「わたしの時はまだ満ちていないのです」(8)。イエスは永遠なる神の御子であられたのに、人間となられたからには、自分が時を支配しているとは考えず、時は御父(父なる神)が支配するものとした(詩篇31:15)。イエスは時を支配したもう御父に従い、みこころがなることだけを考えて時の中を歩んだ。御父の前に徹底的にへりくだり、御父によって栄光の中に高められるその「時」(定められた時)をめざして進んだ。時を支配できると錯覚し、その時の中で自分の願望を満たそうとし、自己の栄光が現われるのを期待する人間とはまったく違うイエスの生き様であった。時の中におけるこのイエスの生き方こそ私たちの模範ではないか。Ⅰペテロ5:6。

イエスが見つめておられた「わたしの時」(イエスにおいて栄光が現われるように定められていた決定的な時)とは、イエスが十字架にかけられる受難とそれに引き続いて起こる死者の中からの復活の時であった(12:27、17:1)。私たち罪人の罪をご自身が身代わりに背負い、御父のさばきをお受けになる時、そして、そのイエスの死のゆえにイエスを信じる者はだれでも罪赦され、神の御前に何の恐れもなく立つことができるようになる道が開かれるその時であった。イエスはその一点を見据え、御父の前にへりくだり、御父に服従して歩まれた。
私たちは2000年前のキリストの十字架の死と復活を見つめ、自分の人生の最期と永遠の始まりの時を見据え、そうして、神の御前にへりくだり、神のご計画を信じて、神に身をゆだねながら、今日という時を精一杯、大切に生きていく。主イエスとともに前に進んで行く。