礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2020年1月5日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(新年礼拝)】
        「主の恵みに生きる」  ルカの福音書 4:14~30


2020年の蓮沼キリスト教会の標語は「主の恵みに生きる」、主題聖句は「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。主の恵みの年を告げるために」(ルカ4:18,19)である。
神の恵みは「いつもある」(詩篇52:1)。主の恵みは「限りなく豊か」(エペソ2:7)で、「朝ごとに新しい」(哀歌3:23)。そして日々「ますます豊かに」なっていく(Ⅰペテロ1:2)。主の恵みに生きよう。主の恵みに日々生かされたい。 
イエスは郷里ナザレの安息日の会堂礼拝で、ご自分が「油注がれた者」(メシア、キリスト、救い主)であることを宣言なさった。人々はイエスを称賛するが、すぐに懐疑し、拒絶する。人々はイエスの堂々たる権威ある語り方、「口から出て来るめぐみのことば」に驚嘆し、イエスを称賛する。しかし、人々はイエスのことばを「耳にした」(21)ただけで、信仰をもって心で受けとめなかった(ヤコブ1:21)。人々は「この人はヨセフの子ではないか」と疑念がわき、イエスに懐疑的になり、不信仰に対するイエスの厳しいことばのゆえに、イエスを拒絶する。イエスを会堂から追放し、抹殺にしようとした。イエスは彼らのただ中を通り抜けて行ってしまわれた。
恵みの主イエスに対する私たちの態度が問われている。

Ⅰ 主イエスの臨在に触れる恵み(4:16)
イエスは「いつもしているとおり安息日に会堂に入」り(16)、神を礼拝した。イエスがいつもしていたことはほかには、「いつものように」祈ること(22:39)、そして、「いつものように」教えること(マルコ10:1)である。
私たちもこの主イエスに倣いたい。第一に、主日に教会に集い、神の民とともに神を礼拝する。第二に、一人で神の前に座し、みことばに触れ、黙想し、神のみこころを聴いて、神に祈る。第三に、みことばを通して神から聴いたこと、教えられたこと、示されたことを人に教える、すなわち、人に分かち合う。
ともに神を礼拝する時、一人で神の前に祈る時、みことばを分かち合う時、私たちは聖霊においてともにおられる主イエスの臨在に触れる恵みを体験する(マタイ18:20、ヘブル2:12、マタイ28:20、ローマ8:26)。

Ⅱ 主イエスの救いを体験していく恵み(4:17~21)
ユダヤ人10家族が集まれば、会堂(シナゴーグ)を組織できた。会堂は安息日礼拝の場であるとともに、子どもたちの教育の場でもあった。会堂礼拝では、進行役の会堂司が祈祷や聖書朗読・説教をいろいろな教師(ラビ)に依頼した。この日はイエスが聖書朗読と説教を依頼された。まずトーラー(律法、モーセ五書)の朗読、次にナービーム(預言書)の朗読である。この日はイザヤの巻物が手渡された。イエスはイザヤ61:1~2を朗読し(18~19)、説教をした(21,23~27)。
「主の霊がわたしの上にある。貧しい人には良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(18~19)
イエスは説教をこう始める。
「今日、この聖書のことばが実現しました。」(21)
バプテスマを受けて聖霊が天から注がれ(3:22)、聖霊に満たされ(4:1)、聖霊の力にあふれていたイエス(14)は、「主の霊がわたしの上にある。…主はわたしに油を注ぎ」(18)というみことばが自分に当てはまること、自分こそが「キリスト(メシヤ、油注がれた者)」、旧約聖書で約束されていた救い主、神から遣わされた者であると宣言する。
イエスはどのようなキリストか。「貧しい人に良い知らせ(福音)を」宣言するキリストである。永遠の「神のことば」であられる主イエス(ヨハネ1:1)は、福音を告知するだけではなく、福音をご自身の存在とわざをもって体現し、福音の内容である救いを実現する方でもあられる(イザヤ55:11)。
「旧約聖書の中で貧しいとは、神にあわれみを請い求める謙遜な者のことであるし、虐げられていて解放を必要とする人々のことでもある」(ジョン・ストット『日毎の聖書』)。「貧しい人」(「捕らわれ人」「目の見えない人」「虐げられている人」)とは、霊的な貧しい人であるとともに、実際生活での貧しい人(窮乏、抑圧、困難の中にある人)の両方を含んでいるのである。
キリストである主イエスがおられるところに「主の恵みの年」が到来している。旧約聖書を見ると、イスラエル社会では50年ごとにヨベルの年が設けられており、その年には民は負債から解放され、奴隷労働と奴隷状態からの解放がなされた(レビ25:10)。このように解放が実現するヨベルの年は、将来のさらに大きな解放の年をあらかじめ示すところのもの(予型)でもあった。イザヤ61:1~2で言われている「主の恵みの年」は、当時の近い将来のこととしては「バビロン捕囚からの解放」を、そして、さらに遠い将来のこととしては、到来が約束されるキリスト(メシア、救い主)による大いなる解放の年(日々)を予め示すものであった。
キリストである主イエスがおられるところに「主の恵みの年」が到来している。主の恵みとして、罪からの解放(罪の赦し・義認、霊的開眼、罪の力への抵抗と勝利・聖化)と現実的窮乏・抑圧・困難からの解放、すなわち、霊肉両面の全人格的(全人的・ホーリスティック)な解放がもたらされる。
「福音は、霊的に貧しい人たちのためにあり、また、物質的に、貧しい人たちのためにもある。…霊的に貧しい人は、神の前に自分を低くし、信仰によって、救いの自由な賜物を受ける。…また、物質的に貧しい人々や、無力な人々は、神の子としての新しい尊厳と、彼らを迫害したり、無視するすべての者から解放するためにともに戦う兄弟姉妹たちの愛を受けるであろう」(ジョン・ストットが中心となって作成し、採択された「マニラ宣言」(1989年)の一節。ジョン・ストット『日毎の聖書』より)
人となって罪人に同伴し、十字架で罪人である私たちの罪を贖い、死に勝利して復活し、聖霊において今ここにおられる主イエスを、信仰をもって日々迎え、救いの恵みを受け、救いの恵みを生涯にわたって体験させていただこう。

Ⅲ 主イエスとともに仕える恵み(4:17~19)
私たちキリスト者は、主イエスの聖霊を受けている(使徒2:33、ローマ8:9~17)。キリストが聖霊において私のうちに生き(ガラテヤ2:19~20)、私とともに働かれる。私たちも福音(イエスが救ってくださる事実)を告げ、イエスとともに人々に仕えるため遣わされている。これもまた恵みである。
今年、私たちもルカ4:18~19のように宣言しよう。そして、主イエスとともに神と人に仕える恵にあずからせていただきたい。

「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル3:7~8,15、4:7)。