礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年12月29日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
          「永遠のいのちのことば」  ヨハネの福音書 6:60~71


イエスはガリラヤで、パンの増大の奇跡を行い(1~14)、イエスを王にしようとする民衆(15)と対話し(25~58)、ご自身が「天から下って来た生けるパン」(51)であり、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(54)と語った。本日は第6章の結末。

Ⅰ 「これはひどい話だ」 ~多くの弟子たちの離反~(6:60~66)
ガリラヤの民衆はイエスの奇跡に熱狂し(15)、イエスの話につまずき(60~61)、イエスから離れ去った(66)。彼らも「弟子」と言われている(60,61,66)。イエスについて回り、イエスの教えを受け入れたと自認していたからである。
彼らはイエスが肉体をもって天から下って来た、永遠のいのちを得るためにはイエスの物理的な肉と血を本当に食べるのだと誤解し、イエスの話に嫌悪した(60、創世9:4、レビ17:10~14参照)。永遠のいのちを得るためにイエスの肉の体を食べなければならないとしたら、やがて「人の子」(イエス)が復活の身体をもって天に上った後には、人は永遠のいのちをもう得ることはできなくなってしまうではないか(62)。
しかし、永遠のいのちを人に与えるのは、十字架で贖罪の死を遂げ、死に勝利してよみがえり、天に上げられたイエスの栄光のからだと私たちを結ぶ御霊(聖霊)の働きである(63a)。「わたしの肉を食べ、血を飲む」と話してきたイエスのことばは、「霊であり、またいのちです」(63c)。霊的に理解されなければならず、霊的に理解されるとき、人はイエスご自身を聖霊により信仰を通して受け入れ、その人の内に霊的いのちがもたらされる。
彼らがイエスのことばを霊的に理解できなかったのは、そもそも自分を上に置いてイエスを利用しようとしただけで、イエスの下に謙遜に身を置き、イエスを「神の子キリスト」(20:31)として信頼しようとしなかったからである(64a)。
イエスは私たちのすべてを知り尽くしている(64b)。イエスの前に誤魔化しはきかない。イエスの前に謙遜にひざまずき、「わかりません」「できません」「信じられません」と素直に話し、それでもイエスのもとに留まる信仰が大切。その人へのイエスの恵みは絶大である。

Ⅱ 「だれのところに行けるでしょうか」~イエスのそばにいた十二弟子~(6:67~69)
十二弟子はイエスに信頼し、イエスのことばを永遠のいのちのことばと受けとめ(68)、イエスの愛のうちにおらせていただいた(15:9)。
私たちにイエスから引き離そうとする世の力、悪の力が働く。しかし、イエスから離れて私たちは真の意味では生きていけない。イエスのもとに留まり、イエスと交わり、イエスのことばに導かれながら、イエスのいのちに生かされ、永遠のいのちの道を歩まされるのである。
「あなたが神の聖者(神の子キリスト)であると信じ、また知っています」(69、マタイ16:16)。私たちはイエスを信頼し、イエスのもとに留まるとき、イエスをさらに深く知る。イエスの愛と真理と力を知り、イエスとのいのちの交わりを知る。 

Ⅲ 「あなたがたのうちの一人は悪魔です」~イエスを裏切る者~(6:70~71)
イスカリオテのユダは、十二人の一人としてイエスのそばにいながら、心ではイエスから遠く離れ、イエスを裏切ろうとしていた(71)。ユダは使徒の職務に選ばれていたが、救いの恵みを知らなかった。
人はただ恵みによってキリスト者にされる。求める者は受ける(マタイ7:7)。イエスは求める以上に恵みを与えようと待っておられる(イザヤ30:18)。熱心に悔い改めよ。

「永遠のいのちのことば」なる御子イエス(1:1~5,14)が今も呼びかけ、いのちに招いている。