礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年11月24日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】   「心を高く上げよ」    エレミヤ書 17:9~16
        

「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4:23)

Ⅰ 心が問われている(17:9~1)
「人の心」とは「私の心」でもある。「何よりもねじ曲がって」「癒しがたい」とはショキング! 心には外側からはわからない、マイナスのものがたくさん詰まっている。心の中には「癒されていないものがいろいろある。
主はその人の心の中を見ておられ、心の動機を調べ、その人の「生き方」と「行いの結ぶ実(結果)」がどのような心が現れたものなのかをご覧になって、報いをされる(ローマ2:6)。「どういう心の現れとしての行いなのか」が問われるのである。

Ⅱ 私たちの希望は主にある(17:12~13)
「聖所」(12)とはエレミヤの時代のエルサレム神殿のこと。当時、神殿での礼拝は形式的に主に近づくだけものに堕していた。地上の神殿だけが眼中に入り、「高く上げられた栄光の王座」にいます主ご自身に心を高く上げ、主に信頼することがどうでもよいことになっていた。「聖所」とは、祭壇でいけにえがささげられ、至聖所に血が携え入れられ、祭司によるとりなしと民への赦しの宣言がなされ、民への祝福がもたらされる所であった。主なる神の臨在の場であり、天と地、神と人が出会う場であった。
今日の私たちにとって「聖所」に心を向けるとは、十字架と復活のキリストを見上げることであり、昇天し、天でとりなしをし、聖霊を注いで治めておられるキリストに心を向けることである。そうする時、この十字架と復活のキリストにおいて赦しと癒しの愛を現わし、私たちを赦し受け入れてくださる御父を思うことができる。また、天からキリストが注いでくださった聖霊を思うことができる。キリストを捨ててまで私を買い戻し(贖って)、キリスト以上に私を尊く見てくださっている神の愛を知る。私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えるためご自分を捨てられたキリストの恵みを知る。私たちをキリストの似姿に造り変えようと働き続けてくださる聖霊の情熱を知る。
そのようにして、私たちは三位一体の神の愛を、私たちにある神の臨在と神の働きを知る。そして、不思議に私たちの心は癒され、燃やされていく。ここに希望がある。主こそ「いのちの水の泉」。ヨハネ7:37~38。

Ⅲ 主こそ私の賛美(17:14~16)
エレミヤの心も複雑であったろう。民に悔い改めを迫り、迫害と圧迫の中で心病んでいたであろう。しかし、その中にあって彼は「主を私の賛美」とした。
私たちは何かを「私の賛美」としながら生きている。しかし、「主こそ私の賛美」と心定めるなら、「イスラエルの賛美の中に座しておられる」(詩篇22:3、新改訳第三版)主の臨在に触れるようになる。この主だけを「私の賛美」とし、主を深く思い、主を歌い、主の臨在の中で、心は癒されていくのである。

人の心は、自分ではどうしようもしがたいものである。しかし、心を高くあげ、心を主に向け、主を信頼することによって、大いなる癒しがある。十字架と復活の主イエスを見上げる時、神の愛による癒し、赦しによる癒し、聖霊のきよめによる癒しがある。
私たちも、互いに、主に心を向けることを励まし合い、私たちの共同体が真のいやしのあるところとなるように祈りたい。