礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年12月1日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
        「天からのまことのパン」 ヨハネの福音書 6:22~40


「食べるために生きるな。生きるために食べよ」(イギリスの諺)。
私たちの身体と精神を支え、いのちと生を支える食物はとても大切である。食べることは重要。何を食べるかもよく考えなければならない。加えて、私たちのたましいと霊を生かし、永遠のいのちを与える食物はなおさら重要である。 「わたしはいのちのパンである」と言われるイエスを感謝していただこう。
本日の聖書箇所は、イエスがなさったパンの増大と5000人の給食を体験したガリラヤの民衆とイエスとの長い対話(6:25~65)の始まりの部分である。

Ⅰ いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物(6:22~27)
ガリラヤの民衆はイエスの給食にあずかり(1~14)、「パンを食べて満腹した」(26)。それで、イエスを自分たちの王にしようとし、イエスを探した(15,26)。彼らはイエスが増やし与えた物質としてのパンに心奪われた。イエスの背後におられる神には目を向けなかった。イエスによるパンの増加と給食を、神の恵みとは見ず、また、イエスが神の子キリストである「しるし」とも見ず、ただ自分たちに好都合な、利用できる便利屋の出現と見たのである。
私たちはどうか。神を、イエスを、聖霊を、利用できる便利屋、自分の欲望を満たす召使、私たちのこの世における自己実現のための手段としていないか。
「なくなってしまう食べ物」(27)で腹を満たすことが人生の最重要事ではない。人間は身体だけでなく、たましいや霊を持つ存在である(創世1:26~27、2:7)。「神は人の心に永遠を与えられた」(伝道3:11)。それゆえ、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」が必要である(27)。人は神のことば(聖書のことば)に養われなければならない(マタイ4:4、使徒20:32)。そして、神が本物と証印を押された存在、究極の神のことば、御子なる神、「人の子」、主イエスご自身(1:1~3,14)をもって養われなければならない。

Ⅱ 神のパンは、天から下って、世にいのちを与えるもの(6:28~33)
民衆は、自分たちは神が良しとする「神のわざ(複数)」を行い、永遠のいのちに入りたいのだが、何をすればよいかとイエスに問う。イエスは答える。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」(29)。「神が遣わした者」であるイエスを信じることこそが、神が良しとする「神のわざ(単数)」である(29)。人は善行によっては永遠のいのちに入ることはできない。「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです」(ローマ3:20)。
人類の代表としてすべての善をなし、しかも、私たちに代わって神のさばきを受け、罪の贖い(償い)を成し遂げ、死を滅ぼし、永遠のいのちによみがえられたイエスを信じ、このイエスと結ばれることによって、人は永遠のいのちに入る。
民衆はパンの増加をイエスがキリスト(救い主)である「しるし」とは見なかった。彼らは言っている。イエスはすでにあるパンを増やしただけだが、モーセは荒野で天からパン(マナ)を降らすようにした。イエスはまだまだモーセには及ばない、自分たちがイエスを信じることができるように、モーセを越えるさらにすごいしるしを見せてほしい、と(30~31)。
イエスは彼らの間違いを正す(32~33)。第一に、イスラエルの民が荒野で食べたパンであるマナを与えたのは、厳密にはモーセではなく神なのである、と。ここでイエスは神を「わたしの父」と言う。イエスは父なる神と一体の御子にほかならない(10:30)。
第二に、マナは「天からのまことのパン」を象徴するものにすぎない。マナはイスラエルの民の荒野の40年間だけ、彼らの肉体のいのちを支えただけである(32)。しかし、「神のパンは、天から下って、世にいのちを与える」。「天からのまことのパン」は、全世界に永遠のいのちを与える。世々にわたって、全世界の人々に、永遠のいのちを与えうるものなのである。

Ⅲ 「わたしがいのちのパンです」(6:34~40)
民衆は「天からのまことのパン」をなおも物質の最高級パンとして求める(34)。イエスは彼らの誤解を嘆きつつ、明言する。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35)と。
「わたしが・・・です」とは、ギリシャ語で「エゴー・エイミ(わたしはある)」。これは「有りて有る者」「わたしはある」を意味する神の御名「ヤハウェ」(出エジプト3:14、新改訳では「主」)に通じる。イエスはご自身がヤハウェなる神であり(6:20)、そのご自身が「いのちのパン」であると明言された。イエスに来るなら、すなわち、イエスを信じるなら、たましいと霊の飢えと渇きが満たされる。心を開いて、イエスを受け入れるなら、聖霊により神の愛が心に注がれ(ローマ5:5)、その人はイエスとの交わりの中に守り保たれる。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」(37)。
その人は永遠のいのちを今ここで、すでに持っているのであり、終わりの日にはイエスがその人を栄光の身体によみがえらせ、栄光の御国を継がせてくださる(39~40)。なんと光栄なことか。
イエスはそのように永遠に至るいのちを与え、育み、永遠に生かす「天からのまことのパン」なのである。

願わくは、私たちの心を開いて、天からのまことのパンであるイエスを心と生活に迎えよう。いのちのパンであるイエスを日々味わいたい。日々にイエスと交わり、イエスのみことばに聴き、イエスにゆだねて、永遠のいのちに生かしていただこう。