礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年11月3日、蓮沼キリスト教会 召天者記念礼拝】
        「キリストにあるいのちと不滅」   テモテへの手紙第二 1:6~14


 本日は召天者記念礼拝(聖徒の日)。天に召された聖徒たち(亡くなった信徒たち)を記念する。本日の新約聖句にある「私たち」は、天に召された聖徒たちを含めた私たちである。
救いと聖なる招き、救い主キリスト・イエスの現れ、不滅のいのち。天に召された聖徒たちが生涯で、そして今も、目を向け、知り、味わい、体験し続けている恵みに心を向けたい。
ネロ皇帝の迫害の中、パウロはローマの獄につながれ(1:8、2:9)、殉教の死を覚悟していた(4:16~18)。パウロは気落ちするテモテを福音によって力づけ、彼に伝道者の務めを全うするよう励ますため(4:1~5)、絶筆ともいうべき「テモテへの手紙第二」を書き送った。

Ⅰ 救いと聖なる招き(1:9a)
神は私たちを「罪から」救ってくださった(マタイ1:21)。
罪は神に逆らう自己中心の本性。思いとことばと行いの具体的な罪悪もそこから生じる。神は罪を憎み、さばく。罪は神との交わりを阻害し、人間関係を混乱させ、自己を損なう。
しかし、神はイエス・キリストにおいて、信仰を通して、罪の罰から救ってくださった(罪の赦し)。
罪の力から救い続けてくださる(きよめ)。
そして、やがて罪という存在からも救ってくださる。死後ただちに霊は完全にきよめられ、終わりの日には復活の身体も与えられ、全人格的に罪なきものとして生きることになる(栄光化)。
また、神は私たちを「聖い生活」にも召してくださった。神と人を愛し、神を礼拝し、人に仕え、神に栄光を帰し、神を喜ぶ幸いな生活へと。
 罪からの救いと聖なる生活への召しは、私たちの働きによるものではない。ただ神の計り知れない計画によるのであり、神の一方的な恵みによる。私たちは何ら誇ることはできない。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)

Ⅱ 救い主キリスト・イエスの現れ(1:9b~10a)
罪からの救いと聖い生活への招きという恵みは、神が永遠の昔から、キリスト・イエスのうちに、私たちのために備えていてくださった尊いものである(エペソ1:3~5)。ほんとうに大切にしなければならない。
これらの恵みは、歴史の中で、キリスト・イエスの現れ(受肉、そしてご生涯と十字架の死と復活と昇天)によって明らかにされた。イエスの存在(永遠の神の御子・聖なる方が、罪人の世に人となってに生きてくださるという事実)、イエスの教え(罪の赦しと永遠のいのちの福音の宣言、イエスに従うようにとの招き)、イエスのみわざ(特に、十字架と復活)を通して、罪からの救いと聖い生活への招きが明確に示された。
キリストであるイエスに聴き、この方に目を注ぎ、この方と交わることによって、私たちは、たしかに罪から救っていただける、たしかに聖い歩みへと進ませていただける、ということを身をもって知るのである。

Ⅲ 不滅のいのち(1:10b)
 キリスト教はキリストである。キリストにひたすら目を注ぐ。神はどんな方か、人は本来いかなるものか、死んだらそれで終わりかなど、私たちはその答えをキリスト・イエスのうちに見出す。
最初の人アダムの罪が、世界の全人類に死をもたらし(ローマ5:12)、人は死ぬものとなった(創世2:17、3:19)。
しかし、キリスト・イエスは「最後のアダム」(人類の究極の代表、Ⅰコリント15:45)として、私たちのために、神に従い義を全うし、私たちの罪を負って十字架で神のさばきを受け、罪の贖いを成し遂げた。死んで葬られたが、三日目に死から永遠のいのちによみがえられ、朽ちることのない栄光の身体をもって現れてくださった。
こうして、キリストは人類の最後の敵である「死を滅ぼし」(同15:26)、「いのちと不滅」すなわち、不滅のいのちを身をもって現してくださった。私たちはたしかに一度は死ぬ(ヘブル9:27)。しかし、キリストにあって、死からそのとげは抜かれ、死は不滅のいのちへの入口とされている。

キリストにあって死んだ聖徒たち。彼らはいまや不滅のいのちをもってキリストのうちに生き、終わりの日の栄光の身体への復活を待っている。彼らがつらぬいた十字架と復活のキリストへの信仰を大切にしたい。