礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年10月20日 説教アウトライン】 「イエスのもとに座って食べて」 ヨハネの福音書 6:1~15

「キリストはこの家の主(あるじ)、すべての食卓の見えざる客、すべての会話の静かな聴き手。」
イエスをすべての食卓の主と認め、ともに座り、御手より食を受け、愛をいただく者は幸い。
 本日の個所は実際に起こった奇跡であり、同時に、重要な霊的真理を教える象徴でもあった。

Ⅰ 私たちのすべての必要を知り、心配し、満たしてくださる神(6:1~9)
イエスは人となられた神。私たちはイエスにおいて神を見る。イエスは湖の北西岸カぺナウムから北東岸ベツサイダ(ルカ9:10)に渡り、弟子たちとの静かな時間(休息、分かち合い、教え、祈り)を持とうとしていた(3)。そこに病気のいやしと慰めのことばを求める群衆が押し寄せて来た(2)。
イエスは地元出身のピリポ(1:44)に「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と問う。ピリポはまともに計算して無理と答え、同郷のアンデレも少年の差し出した大麦のパン5つと魚の塩漬け2匹では話にならないと言う。彼らの信仰が試されたのだ。「人間的には無理です。でも主よ、あなたは私たちの思いを超えています。よろしくお願いします」と言えればよかったのに。
神は私たちの体と心と霊のすべての必要に心配り、満たしてくださる。「私の神は・・・あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)。

Ⅱ イエスは状況を受容し、そこにあるものを活用して、わざをなさる(6:10~13)
群衆は男だけで5000人、女や子どもを含めれば1万人以上。イエスの前にある食糧は少年が差し出した貧者の主食の大麦パン5つと小さな塩漬けの魚2匹だけ。他にも食物を持っていた人はいたかもしれないが(マルコ6:31)、その人たちは少年のようにはできなかった。また、その場所には草がたくさん生えていた。イエスはこれらの状況をそのまま受容した。
そして、御前にあるパンと魚を活用した。「イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた」(11)。魚もそうした。皆が十分食べ、なお余ったパン切れは十二のかごを満たした。小さなものもイエスの御手の中にあっては、常に大となる。
私たちも今ある状況を受容し、その上で、私たちにあるものを主イエスの御手にゆだねよう。私たち自身、私たちの賜物・経験・持ち物、そして、失敗さえもイエスに差し出していこう。主はそれらを取り、神に感謝して用い、わざをなされる。「それを、ここに持ってきなさい」(マタイ14:18)。

Ⅲ イエスは私たち罪人の霊的な飢えをこそ満たすために来られた(6:14~15)
群衆はこの奇跡を見て、イエスを、荒野で天からのパンであるマナをもって養ったモーセ(出エジプト16章、申命18:15,18)、あるいは、エリシャ(Ⅱ列王4:42~44)のような預言者だと言い、自分たちの王にしようとした。イエスを自分たちの利益のため利用しようとした。
イエスはまず十字架という王座に挙げられ(19:18~19)、世の罪を除く神の(過越の)子羊として贖いの死を遂げなければならない。そして、死から挙げられ(復活)、天に挙げられる(昇天)。イエスは十字架で死んで、復活し、いま天にあるご自身を、聖霊によって皆に分け与え、そのようにして罪の赦しと永遠のいのちを豊かに与えてくださる「いのちのパン」(33,35)であられる。

イエスは救いを与えるいのちのパン、信じる者にご自身を与え、救いを満たしてくださる。教会はキリストが満ち、救いがあふれる所(エペソ1:23)。主はみことばの食卓(聖書朗読と説教)そして、聖餐の食卓で私たち一人ひとりを恵み、豊かに養ってくださる。