礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2019年10月13日 説教アウトライン】 「モーセが書いたのはイエスのこと」 ヨハネの福音書 5:41~47 水は低い所にのみ流れ下る。「神は…へりくだった者に恵みを与える」(ヤコブ4:6)。 自分が神の前に無に等しい小さき者であることを覚え、だからこそ神に我が身をゆだね、神に従い、また神に我が身を通して生きていただく。このような謙遜を通して、神はご自身の栄光を現わされる。イエスも、モーセもそのようであった。私たちもそうでありたい。 イエスは「ユダヤ人たち」(宗教指導者)と対話しながら、ご自分が「神の子キリスト」、永遠のいのちを与える者(20:31)であることを示された。旧約聖書はイエスのことを証ししているのに、彼らは永遠のいのちを得るためにイエスのもとに来ない(39~40)。なぜなのか。 Ⅰ イエスは神の栄光があらわれることを願い、神からの栄誉のみを求めた(5:41) イエスは人からの栄誉、称賛を求めず、神の栄光がご自分を通して現れることを求めた。 イエスは十字架での受苦と死によって、神の栄光が最高度に現れることを確信していた(17:4)。イエスの十字架において御父は栄光を受ける。罪をさばく神の聖と義、罪を赦す神の愛、贖いの約束を守る神の誠実が輝く。 イエスは、へりくだり、生涯の従順と十字架の死を通して御父から栄誉を受け、死からよみがえらされ、高く上げられた。ピリピ2:5~11。 Ⅱ ユダヤ人たちは自分の栄光を願い、人から栄誉を受けることを求めた(5:42~44) しかし、「ユダヤ人たち」には「神の愛」がない。神との愛のきずながない。イエスが御父から永遠のいのちを与える者として遣わされたのに、イエスを受け入れないのはその証拠。 彼らは宗教に熱心であったが、結局は自分の栄光を願い、人から栄誉・称賛を受けることを求めていた。イエスのように神の前にへりくだり、神に身を任せ、神に従い、神に生きていただき、そして神から栄誉を受けるということは眼中になかった。 自分の栄光を願い、人からの栄誉・称賛を求めるとは、自己満足を求めることである。自己満足は信仰を消滅させる。信仰は欠如感から生まれるからである。人との比較ではなく、神とキリストの前に、自分が無に等しく、罪深く、どうしよもない者であると押し下げられる時、そこに信仰が生まれる。「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈って、神に頼るしかなくなる。 こんな罪人の私が神に愛されていることは、十字架のキリストのもとに立つとき知らされる。礼拝の場で知らされる。神に愛されていることを知ることから、神を愛することが始まる。神との愛のきずなが結ばれ、神に身をゆだねていくことができる。 Ⅲ モーセはイエスの栄光を仰ぎ見て、イエスのことを書いている(5:45~47) モーセは五書(創世記から申命記)にある、女の子孫(創世3:15)、王である祭司メルキゼデク、過越の子羊や幕屋でのいけにえ、大祭司の姿、もう一人の預言者(申命18:15,18)等によって、救い主イエスのことを書いた。だれより謙遜なモーセは(民数12:3)、イエスを仰ぎ、イエスを指さしていた。ユダヤ人が望みを置くモーセが、ユダヤ人の間違いと不信仰を訴える。 十字架のイエスは、神の愛と赦し、恵みとまことに満ちた栄光を輝かす。イエスのもとに来たれ! |