礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年10月6日 説教アウトライン】 
   「イエスについての証しに囲まれ」    ヨハネの福音書 5:30~40


1912年のストックホルム・オリンピックの金栗四三は、コースをはずれてゴールできなかった。
永遠のいのちというゴールに入る秘訣は、信仰の創始者・完成者イエスに目を注ぎ続けることである。私たちは多くの証人たちに囲まれている。彼らは「イエスは神の御子、キリスト。この方をしっかり見て」と天の観覧席から私たちに声援を送っている(ヘブル12:1~2)。
イエスはご自分が、神と等しく(18)、永遠のいのちを与え(24)、いのちの源であり(26)、罪をさばく者(27)であると主張され、ご自分が「神の子キリスト」(20:31)であることを示された。それで「ユダヤ人たち」(宗教指導者)のイエスを殺そうという思い(18)はさらに募ったであろう。しかし、イエスは彼らが救われることを願って(34)、なおも語りも続ける。

Ⅰ バプテスマのヨハネの証し(5:30~35)
自分一人の証言だけでは真実とは認められない(31、8:13)。律法では二人または三人の証言が必要である(8:17、申命17:16、19:15)。それでイエスは「ほかに証しをする方がおられる」と言う(32)。その方は最高の証人である「御父」にほかならない(37)。
イエスは、バプテスマのヨハネも、イエスが「神の子キリスト」であるという「真理」を証ししたと述べる。イエスは、ヨハネという人間の証しによって、ご自分のことを立証しようとは思わない(34)。しかし、ユダヤ人たちに、彼らも一時心を動かされたこのヨハネという人物の証し(1:29~36)を思い出させ、彼らが回心して救われることを願った。
ヨハネはヘロデに迫害され、捕らえられ、無残に処刑された(マルコ6:17~29)が、イエスは彼を忘れず、高く評価し、栄光を与えた(33b,35)。イエスは私たちに対してもそのような方、まことに慈愛深い方であられる。「父と母が私を見捨てようとも 主は私を迎え入れてくださいます」(詩篇27:10、聖書協会共同訳)。イエスは私たちをしっかり心に刻み、心にかけ、胸に抱いていてくださるのである。

Ⅱ イエスが行なっているわざそのものが証し(5:36)
イエスのわざ(奇跡)も、イエスが父から世に遣わされた「神の子キリスト」であることを証しする。カナの婚宴での水のぶどう酒への変容、カナの役人の息子の癒し、ベテスダの病人の癒し、五千人の給食、嵐の中の水上方向、盲人の癒し、ラザロの復活、高く挙げられること(十字架から復活・昇天へ)…。それらは「イエスが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざ」(36)であり、御父と御子(イエス)の深い交わりの中でなされたもの、しかも、本来神にしかできないわざ(マタイ11:2~6)。これらのイエスのわざは、イエスが神であり、キリストであることを雄弁に証ししている。
これらの奇跡をナンセンス、ありえないと決めつけてはならない。イエスの敵たちでさえ、「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるし(証拠としての奇跡)を行っているというのに」(11:47)と言って、イエスが奇跡を行っていることは認めざるを得なかったのであるから。私たちはイエスがなさったみわざ、奇跡を軽視せず、むしろそこにしっかりと目を向け、その奇跡を文字通り起こったこととして受け入れようではないか。それらは、御子イエスと御父との愛の交わりの中で生み出された大いなるわざであり、これらのわざを通して御父が証言してくださるものなのである。「イエスは神の子、キリストである」(20:31)、「この人を見よ」(19:5)と。

Ⅲ 旧約聖書の証し(5:37~40)
かつてイスラエルの民は、「二度と神の声と御姿にじかに触れたくない、死にたくないから」、と言った。それで、神はモーセのような一人の預言者を遣わすと約束された(申命18:15~19)。それは、御父の心を語り、御父の存在を顕わす方、イエスのことである。しかし、ユダヤ人はそのことばを心に留めず、その方を信じようともしない(37~38)。このように、御父は旧約聖書を通して、ご自身が遣わす救い主、神の御子、イエス・キリストのことを証ししておられた。
聖書は永遠のいのちを与えるのではなく、永遠のいのちを与える方、神の子イエス・キリストを指し示す。その方が眼前にいるのに、ユダヤ人たちはイエスのもとに来ようとしなかった。

今や、聖霊(15:26)、新約聖書、教会と聖徒の交わりなど、イエスを証しするもはさらに豊かになった。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1~2)。
「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」(6:68)。
私たちはイエスを信じ、イエスに目を注ぎ続け、永遠のいのちの道を歩み続けさせていただこう。