礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2019年8月11日(平和記念礼拝) 説教アウトライン】 「御国を求めなさい」 ルカの福音書 12:29~32 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9) 平和をつくる方は神ご自身である(イザヤ45:7)。神が平和をつくる。また、平和をつくるのは、平和の君であられる主イエス・キリストである(イザヤ9:6、エペソ2:14)。しかし、神は人を用いてすることを好まれる。神は平和のために人を用いる。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」(ガラテヤ3:26)。私たちは平和をつくる神の子どもたちである。 フランスのテゼ共同体の創始者であるブラザー・ロジェは言う。「会話の中で対立し合い、そこで互いに不愛想にさえなるとき、相手のことを聖霊にゆだねることによって、私たちの心は平和になります。自然に、相手に気づかれることもなく、平和を生きるのです。」(ブラザー・ロジェ『信頼への旅 内なる平和を生きる365日の黙想』)私たちキリスト者は対立する相手を聖霊にゆだねることができます。聖霊にゆだねることによって、対立を乗り越える平和の第一歩を画することができるのです。 私たちが第一に求めるべきものは「御国」である。それは、神の愛のご支配、すべてのものが神が創造した目的にかなって生き生きと生かされる状況、本物の平和である。そして、私たちが求める御国の中心におられるのは、御国の王であられる主イエスである。だから、御国を求めるとは、御国の王であられる主イエスを求めること、主イエスと対面することである。御国を求めるとは、御国の王であられる主イエスの前にしっかり立つこと、主イエスを崇め、礼拝することである。そして、御国の進展、本物の平和が実現するために御国の王であられる主イエス前に自分を差し出し、御国の王であられるイエスが真の平和をつくるために私にするように求めておられることを聞き取り、そのわざを主イエスとともに喜んで実行していくことである。もし、私たちが本気で御国を求めて行くなら、神は私たちを飢えさせて、裸のまま放っておくことはない(31)。 今年の日本での大きな出来後といえば、やはり天皇の代替わりだろう。4月30日に明仁(あきひと)天皇が退位し、翌5月1日に徳仁(なるひと)天皇が即位した。それに伴い、元号が平成から令和と改元された。町には「祝 令和」の文字があふれ、「令和最初の〇〇」というフレーズが飛び交っている。秋には即位の礼と大嘗祭が多額の公費を使って大々的に行われる。お祭りムードである。しかし、天皇という存在を考えれば考えるほど、これらのことは大きな問題をはらんでいることがわかってくる。 天皇とはどんな存在なのか。東京基督教大学の山口陽一学長から教えられたことを中心に、以下に述べてみる。(山口陽一「キリスト教と天皇制 ― 天皇の代替わりに備えて」(『キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉』、いのちのことば社、2019年))。 天皇の称号を始めて使った天武(大海人皇子(おおあまのおうじ)、在位673~686年)以来、日本の天皇は皇室神道の最高祭司として存在してきた。皇室神道とは、原始神道における八百万の神々の頂点に、天皇家の皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を君臨させる神道である。天皇は祭司王として宗教的権威に高められ、しかも、記紀に記された天孫降臨神話をもとに、天皇は天の神の子孫とされ、現人神(あらひとがみ)、現御神(あきつみかみ)である「天皇」として一層権威を高められた。そして、天皇は政治権力を持たなくなった後も、宗教的権威として時の支配者の支配の正当性を確証するものとして、その存在が政治利用されてきた。 江戸時代が終わり、明治維新によって権力を掌握した薩長による明治政府は、欧米列強の帝国主義的侵略に抗するため、天皇親政を掲げる中央集権的国家を樹立する。欧米列強に倣って富国強兵を推進しようとした明治政府は、天皇を機軸とする祭政一致の「近代国家」をめざし、孝明天皇(在位1846~1867年)から睦人(むつひと)天皇への代替わりにおいて新しい天皇制を創出した。明治政府は天皇神話を再構築し、「天皇教」とも言うべき疑似宗教をつくり、天皇を国民国家の統合軸とした。岩倉具視によって、天皇の「万世一系」の語が初めて用いられ、天皇家の血筋の純粋性が捏造され、ひいては日本という国柄の純粋性が強調された。慶応4年9月8日を明治と改元し、以後は一世一元(天皇一人の在位に対して一つの元号だけを使用する)とし、天皇の治世が演出された。 1930年代に入り、天皇はますます神格化され、天皇の名による大東亜共栄圏拡大のための戦争が遂行されていった。日本のキリスト教会もそのような動きに抵抗することをせず、かえってそのような動きに迎合し、戦争協力をした。 1945年日本は敗戦し、1947年5月3日から日本国憲法が施行され、天皇については第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」規定された。また、99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあり、天皇は現憲法下では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という特殊な職務を担う公務員とされている。にもかかわらず、皇居の中には戦前同様、宮中三殿(天照大神を祀る「賢所」(かしこどころ)、八百万の神々を祀る「神殿」、歴代の天皇を祀る「皇霊殿」)と新嘗祭を行う神嘉殿があり、天皇は相変わらず天皇教の祭司としての儀式を日々行っている。しかも、多額の税金がそこに使われている。このように、天皇はなお皇室神道(戦後は国家神道と呼ばれるようになった)の神官であり、日本における「神」であるゆえに天皇なのであり、そこに公私の区別は不可能である。また天皇の政治利用、あるいは神格化を図る政治勢力があり、これを是認する国民がいるのも事実である。 11月に予定されている大嘗祭はまさに天皇神格化の神道儀式であり、これに公費である宮廷費27億1900万円が当てられる。特に大嘗祭のために造られ、使用後に解体撤去される大嘗宮の造営関連費用は19億円に上る。神話に基づいた神道儀式が、政府が関連する行事として行われ、多額の税金が投じられることは、憲法が定める政宗教分離原則からしても大問題である。また、改元して「令和」となったが、そのことにより自分たちの生きている時代を天皇中心にみる見方が助長され、知らず知らずのうちに天皇の歴史支配を刷り込まれることになる。 私たちキリスト者は、イエス・キリストこそ世界と歴史の主、全宇宙の支配者と告白する。私たちはイエス・キリストを御国の王、平和の君としてまっすぐに仰ぐ者である。私たちは2019年の日本、天皇の代替わりの「祝 令和」「天皇フィーバー」の空気の中で、その視線が曇らされることのないようにさせていただこう。御国の王イエス・キリストの前に出て、この方を礼拝し、この平和の君を崇めることによって、私たちは初めてキリストとともに平和をつくる者として力を得て出て行くことができるからである。 植民地朝鮮で歌うことが禁じられた讃美歌(『讃美歌21』13)を心に刻みたいと思う。 「御使いとともに イェスの御名の 力をたたえて 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 「命をささげし 証し人よ、ダビデの御子なる 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 「まことの神にて まことの人、贖い主なる 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 「世の罪人よ、イェスの愛と 悩みを思いて 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 「世界の人々 御前に伏し、栄光たたえて 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 「世界を治むる イエスを仰ぎ、たたえの歌もて 主をあがめよ。冠をささげて 主とあがめよ。」 そして、主イエスのみことばを、大きな励ましとして心に刻ませていただこう。 「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」(ルカ12:32) |