礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年7月7日 説教アウトライン】   「勤勉であること」      箴言 6:6~11

主なる神の御前で勤勉であれ! この箇所には勤勉と怠惰の対比がある。

Ⅰ 蟻を見ながら、勤勉についての知恵を学ぶ (6:6~8)
第一に、蟻の勤勉は「自発的」(7)。上からの強制や周囲の目を意識して働くのではない。強制されて勤勉であろうとすると、燃え尽き、倦怠感になり、なまけモードに陥りやすい。何かから強制された勤勉は、人を高慢にすることもある。
第二に、蟻の勤勉は「時宜をわきまえた」もの(8)。蟻は「夏」や「刈り入れ」という時をわきまえて働く。真の勤勉は、今は何をするのが一番良いかを見極め、それに打ち込む(Ⅰ歴代12:32)。
第三に、蟻の勤勉は「後の日に備える」もの(8)。蟻はやがて来る厳しい冬に備えて働く。真の勤勉は目前のことだけでなく、将来を見据え、必ず将来の益に繋がることを信じて現在に努め励む。
第四に、蟻の勤勉は「自分を越えたより大きな人格」のためのもの。一匹の蟻は自己の利害損得を考えず、その群れの全体とすべての蟻のために働く。

Ⅱ 怠け者が失っているもの、失ってしまうもの (6:9~11)
勤勉はあらゆる領域で求められる。家庭、職業、教会、地域で。身体、物質、霊性において。
怠け者が失っているは何か。第一に、「自発性」。人からの強制感は、ほどなく“なまけモード”に入っていく。
第二に、「時宜のわきまえ」。今何をすべき時かを見極めないので、肝心なことを怠けてしまいやすい。
第三に、「後の日の益を見る目」。将来の益に繋がるという視点がないので、今すべきことに打ちこまない。
第四に、「自分を超えた人格、神と隣人へのまなざし」。自分のことしか考えないと、いい加減になりやすい。
第五に、「謙遜さ」。謙遜さを失い、慢心していると、「いざとなったらできる」といい気になって事を先延ばしし、怠けてしまう(26:16)。
第六に、「信望愛」(Ⅰコリント13:13)。神への信頼とそこから来る希望。自分が神から愛され、人からも愛されているという愛の意識がないので、「どうせ、自分はだめなんだ」と無気力から怠惰に陥る。
9~10節は、怠けモードがユーモラスにしてリアルに描かれている。怠け者の行く末は、いろいろな面での貧しさと欠乏。みすみす主の祝福を失うことになる。

Ⅲ 怠惰から勤勉へ
自分の力で勤勉になることはできない。主を見上げることが大切である。主こそ最高に勤勉な方(詩篇121:4) 。だからこの主を見上げ、「勤勉でない私をあわれんでください」と祈ろう。
「主を畏れることは知恵の初め」(9:10)。知恵は主を畏れることによって真に活きる。主を畏れるとは、圧倒されて御前にひれ伏すこと。主を見上げ、主のきよさに圧倒され、自分の罪深さに圧倒され、救い主イエスにおいてその罪を赦してくださる主の愛に圧倒されて、御前にひれ伏すこと。こうして主を畏れ、主の愛を深く知ると、主が私にこの働きを与えてくださったという使命感と、主の私への期待感を覚える。しかも、真の勤勉のかけらもない私の弱さを覚え、弱さの中に主が力をもって働くこと(Ⅱコリント12:9)も覚え、主のあわれみにすがり、真の勤勉へと押し出される。また、神の栄光と隣人への愛に心を向けるので、自己中心的で、いいかげんな欲望充足の殻を破って、真の勤勉へと喜び進む。
主を畏れ、知恵(みことば)と主のお取り扱いの体験を貯え続けよう。このような霊的勤勉が、すべての勤勉に繋がる。